『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』を読んだ

『「本当のこと」を伝えない日本の新聞

 「「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)」を読んだ。
 「ジャーナリストとは、基本的に権力寄りであってはならない。権力の内側に仲間として加わるのではなく、権力と市民の間に立ちながら当局を監視し、不正を糺していく」ことであると本書の著者が言うように、本来、ジャーナリズムとは、権力の腐敗を監視し、民衆の側に立つことであろう。
 そうでないジャーナリズムとは、ジャーナリズムと似て非なるもの。単なる御用情報産業、マスコミ産業に過ぎないのだろう。
 本書は、ニューヨーク・タイムズ東京支局長による日本のジャーナリズム批判である。
 とりわけ3.11以降の新聞報道のあり方について批判し、「記者クラブ」を問題視している。
 日本の「記者クラブ」の問題性については、かなり前から私もジャーナリズムのあり方について書かれた本から学んだことがある。
 本書によれば、現場に行かない記者の問題は、一般論としては、どうやら悪化しているようだ。

世界でも稀に見るこの組織は、英語圏では「kisha club」「kisha kurabu」と呼ばれる。あまりにも特異すぎて、翻訳語が存在しないのだ。

 南三陸町役場のリーダーでもあり、かつ津波を生き延びた被災者でもある町長へのインタビューでも、次のような「記者クラブ」の「取材風景」が出現したという。

「今日は何人の遺体が見つかりましたか。数字は××7人で正しいですか」
「××8人ですか」
それが自らの使命であるかのように1ケタの数字に神経質にこだわり、彼らは非常に細かいやり取りをずっと続けていた。


 ジャーナリストであろうとするときの、政治家や業界との距離感のとり方は重要だ。
 「2002年9月8日、ニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者フセイン大統領の核開発疑惑を報じ」、「チェイニー副大統領をはじめとするアメリカ政府は、この報道を開戦の理屈づけに利用した」。「イラク大量破壊兵器を隠し持っている」という情報を「開戦の理由づけ」に「利用した」が、「さまざまな調査がなされたものの、イラク大量破壊兵器が見つかることはついぞなかった」。この情報源は、「ほかならぬチェイニー副大統領のスタッフだった」。
 こうした「権力に近づきすぎたジャーナリズム」のことを、「アメリカでは批判的に『アクセス・ジャーナリズム(access journalism)』と呼ぶ」という。
 ニューヨークタイムズも完璧であるはずはないのだが、「アクセス・ジャーナリズム(access journalism)」も、「culture of collusion(癒着文化)」も、本来のジャーナリズムとは無縁である。

 本書では、ジャーナリストはいかにあるべきか、その基本・基礎が指摘されているのだが、ただ「記者クラブ」のあり方の問題性など、ここに書かれていることは、すでに日本人ジャーナリストによって指摘されていることでもあり、これまでに本で読んだこともある。
 それが、3・11という現場に行かなければならない問題によって、よりわかりやすい現象として顕在化したということなのだろう。
 また、そうした傾向がより悪化しているということなのかもしれない。

 ことはジャーナリズムに限らないのだが、やらなければならないことを実行し、やらなくてもよいことをおこなわないという、日本のあちこちの現場で変革が求められていることは間違いないのだろう。

 著者が先輩記者から教わった次の言葉は否定できない。

A good journalist needs a sense of moral outrage.(良いジャーナリストには正義感<=悪に対する人間的な怒り、義侠心>が必要だ)