「(私の視点)ナチスの加害学ぶ独 悲劇繰り返さないために サンドラ・ヘフェリン」

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 以下、朝日新聞デジタル版(2017年10月12日05時00分)から。

 来日して20年の私が驚くこと。それは、日本にはナチスを称賛したり、部分的にではあっても「ヒトラーの何々がよかった」「ナチス時代はここがよかった」と褒めたりする人がいることだ。

 昨年、女性アイドルグループがナチスの軍服に似た衣装を着ていたことが問題になった。その後も著名な医師がSNSで「ナチス政権下のドイツ医学の発展は目覚ましいものだった」「南京もアウシュビッツも捏造だと思う」と発言した。麻生太郎副総理兼財務相の過去数回にわたる「ナチス発言」を覚えている人も多いだろう。
 「アウシュビッツは捏造」発言は、いわば「広島、長崎の原爆は捏造」と同じぐらい被害者や関係者が負う傷は深いと考えてほしい。
 ドイツでは、これらの発言や行動は刑法の民衆扇動罪で禁止されている。ヒトラーナチス・ドイツを礼賛、賛美する言動はもちろん、ナチス式の敬礼やシンボルマークを見せることも禁止されている。
 日本の中学・高校にあたるギムナジウムでは、負の部分、加害者としてのドイツについてじっくり学ぶ。ダッハウ強制収容所に行ったり、映画「シンドラーのリスト」を見に行ったり。ごく普通のドイツ市民が、ナチス政権下、隣人のユダヤ人に汚い言葉を投げかけたり、正義の名のもとに彼らをナチスに密告したり、しまいには「そうされてしかるべきだ」と思い込む様子が描かれた小説「あのころはフリードリヒがいた」も読む。メディアでも定期的に特集が組まれ、ナチス・ドイツの犯罪が取り上げられている。
 なぜ加害者としての話を今も伝えるのか。それは、悲劇を繰り返さないため。これに尽きる。
 日本では学校やメディアで戦争について取りあげる際、被害の部分に焦点を絞ることが多く、加害者としての日本について語られることは多くない。加害について深く考えないことが、軽々しくナチスを面白がったり賞賛したりすることにつながっていると感じる。
 現在、日本では、自国の加害について触れることを「自虐的」ととらえる風潮がある。しかし、負の部分を振り返り、二度と同じことを繰り返さないようにするというのは前向きのことではないか。
 小池百合子東京都知事関東大震災朝鮮人犠牲者への追悼文を見送ったこともそうだが、今の日本は自分とは違う立場にいる人の痛みに鈍感になっていることは明らかだ。
 一歩間違えば戦争へと進みかねないのが人間だ。そのことを普段の生活の中で自覚することが平和へつながるのではないだろうか。