黄色いハンカチ」の幸福論 山田洋次監督と考える復興

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以下、朝日新聞デジタル版(2019年3月11日21時40分)から。

 明治以来150年もの間、この国は成長と拡大の先にある「幸福」を信じ、長い坂道を上り続けてきた。そして8年前、巨大津波原発事故は、その物語のもろさを突きつけた。震災は、私たちに何を問いかけたのか。被災地に暮らす記者(35)が、「家族」を通じ幸せのあり方を描いてきた山田洋次さん(87)に聞いた。

山田洋次監督から届いた感激 被災地にゆれる小さな幸せ

 東日本大震災津波に襲われ、「奇跡の一本松」が残った岩手県陸前高田市。約10メートルかさ上げされた大地に「黄色いハンカチ」がはためいている。姉と自宅を失い、山田さんの作品を心のよりどころにしてきた菅野啓佑さん(77)が震災の2カ月後に掲げた。映画は、罪を犯し受刑者となった夫を、妻が無数のハンカチを掲げて待つ物語。菅野さんは7年半の仮設住宅暮らしを終え、昨年末、再建した自宅に移り住んだ。再びハンカチを翻らせ、仲間の帰りを待ち続けている。

 ――菅野さんは「黄色いハンカチを掲げることが、おれにとっての希望なんだ」と話しています。

 「本当に涙がでてくるよ。申し訳ないような、ありがたいようなね……。生きるか死ぬかというすさまじい目に遭った人が、黄色いハンカチを何度も掲げてくれるなんて。映画監督冥利(みょうり)につきると言いたいな」

 ――菅野さんとは手紙でやりとりを続け、「希望よ永遠に」と書いた板も贈っています。

 「贈ったわけじゃない。『書いてくれ』って言われ切羽詰まって書いたようなものを大事にして下さっていると聞くと、ぼくは恥ずかしくて。穴に入りたいという気持ちですよ」

 ――恥ずかしいとは。

 「ぼくが経験した苦労なんて、彼の苦労に比べたら本当に知れているんだよ。ぼくは引き揚げ者で、中学生のときに内地に難民のように移住して知らない土地で暮らし始めた。そのときの状況にほぼ近いんだろうけど、当時は日本中、そういう境遇の人がいっぱいいたからね」

 菅野さんが暮らしていた今泉地区は、600軒あった家々が根こそぎ流された。高台移転とかさ上げによる住まいの再建が始まった。総事業面積は東京ドーム64個分の約300ヘクタール。1600億円の国費が投じられる。だが宅地の7割には利用予定がなく、空き地になりかねない。

 ――巨額の国費を投入したのに人が住まない。地元では半ば自嘲気味に「ピカピカの過疎の町」という表現も使われ始めています。

 「あそこから消えてしまった人たちはたくさんいる。残った人も、今までより海抜が10メートルも高いところに暮らしていかなくてはならない。出来たてでピカピカして、しかも寂しくて。いったいいつになったら、家やお店が並ぶ『町』になるんだろうね」

 ――地元の人々が言う「復興」とは、「今日と同じ明日が来る」「震災前と同じ暮らしを取り戻す」という、ささやかで確かなものでした。

 「阪神大震災のあった神戸の長田地区で、小さなお稲荷さんが焼けてしまった。復興の掛け声とともに、巨大な耐震のビルがズラズラ建つとき、地元のおばあさんが聞いたそうだ。『あのお稲荷さんは、いつどこに建てて下さるのでしょうか』と。つまり、市民にとって、復興するというのは、そういうことなんだね。近所の人たちがお稲荷さんの前で朝のあいさつを交わし、昔なじみの豆腐屋で朝の豆腐を買うといった、和やかで平和な暮らしのイメージは、市の計画にはないと思う」

 復興の基本方針で、政府は復興期間を10年と設定。前半の5年を集中復興期間、後半の5年を復興・創生期間とした。津波被災地の岩手・宮城では住宅再建が進む一方、原発被災地の福島では住民帰還がままならない現状がある。

 ――原発事故をきっかけに、経済成長を支えてきた「科学技術」は万能ではないと、多くの人が考えるようになりました。

 「原発が止まり、節電が続いた時期、高速道路は暗くなったし、街灯もネオンも消えた。けれども、そのことで特に不自由はなかった。日本中が少し我慢して節電すれば、原発を停止しても大丈夫じゃないか、って思った。どうして国をあげて、あの時そういう風に考えなかったのだろうか」

(後略)

大船渡駐在・渡辺洋介