梅棹忠夫「情報の文明学」を購入した。
初版年は1988年6月10日。俺のもっている版は7月20日の第三版。
放送人は、戦後に発生したあたらし職業集団である。しかし、その社会的存立の論理において、これとおなじ構造をもった職業がいままでに存在しなかったであろうか。
わたしは、従来の職業のなかで放送人にいちばんよくにているのは、学校の先生だとおもう。学校の先生は、教育という仕事にひじょうな創造的エネルギーをそそぎこむわけだが、しかし、その社会的効果というものは検証がはなはだ困難である。かれがつくっているのはものではない。ひとである。しかし、りっぱな人間ができたからといって、特定の教師の、特定の教育的努力の効果であるかどうかは、はなはだはっきりしない。効果はしばしば、上級学校入学率のようなものでかんがえられることになるが、それはテレビの視聴率みたいなもので、効果の内容についてはなにごとをもおしえない。教師の社会的存在をささえている論理の回路を完結せしむるものは、やはり教育内容の文化性に対する確信以外にはないのである。
こうみるならば、放送人は一種の教育者である。教育者が、その高度の文化性において聖職者とよばれるならば、放送人もまた一種の聖職者である。現代ふうのよそおいと感覚をもった聖職者である。あるいはまた、放送事業というものは、聖職の産業化であるということもできるであろう。(p.15)