外国語の授業の組み立て方

 ついでに言うと、以上のような指導体制がしっかりしていれば、例えば、文法を教え、翻訳しながら指導するという例の伝統的指導方法であるグラマートランスレーションメソッドでも、私は全く問題ないのではないかと思う。告白すると、基本的に私はグラマートランスレーションで20年以上も教師をやっている。よく悪口を言われるこのグラマートランスレーションだが、外国語学習が選択制でなく、全員履修である現在のシステムで、日本のさまざまな条件を考えるならば、グラマートランスレーションメソッドがそれほど悪いとは思えない。マオリ語の学習にしたって、実際いまのわたしのマオリ語のレベルからいえば、グラマートランスレーションでやってもらわないと非常に困る。マオリ語に関していえば、今の私は、まさにヘルプレスの状態なのだ。
 ところで、私が受けた2回のマオリ語初級の指導内容だが、「マオリ文化についての文化的な紹介」「暗唱すべき文化的教材」「母音と子音の発音体系の説明と指導」「マオリ語による日常挨拶」と、内容的なバランスがとてもいい。
 例えば、文化的な内容を持ち、暗唱に足る教材ということでは、「最後におこなうお祈り」というものがある。これを意味もあまり説明せず、「祈り(カラキア)」という紹介だけで、「音読」し、「暗唱」させる。暗唱も無理やりではない。1回目も2回目もOHP(オーバーヘッドプロジェクター)を使っていたが、2回目の授業では、OHPで二行ほど、本を伏せて学生に見せないようにして復唱させた。つまり、指導のレベルを上げていくのである。授業の最後に、これをみんなで声に出すので、このカラキアはこれから授業ごとに何度も繰り返されるのだろう。
 さらに、マオリ語の発音の体系を教えられた。マオリ語には短母音、長母音が全部で10個ある。これはまるで日本語の発音という印象である*1。また子音が10個ある。こうした音声的な基本的事実は、発音指導ののち、クイズで講師から確かめられたので、知識として難なく定着してしまう。
 また音声を重視しながら、挨拶表現を学んだのだが、文法を強制せず、最低限の逐語的な訳しかやらないので、さっと説明されただけでは意味のわからない単語がたくさん残ってしまう。私などは、どういう意味なのか、家に帰って辞書を自分で引いてみたほどだ。ただ、こうした内容全体のバランスがとてもいいように思う。つまり生徒の学習意欲や興味を喚起することに成功しているのである。そして時に、教え過ぎないことが大切なのだろう。生徒の興味を引き出しながら、飽きないように、バランスよく指導するということが大事なのであって、古典的な「音読」「復唱」「暗唱」は、外国語指導や外国語学習にとって、やはりそれなりに王道なのだと痛感した。
 私は読んでいないのだが、少し前に斉藤孝氏の「声に出して〜」というシリーズが日本でベストセラーになったけれど、裏を返していうならば、日本ではすでに学校や家庭で、声に出すことが少なくなってしまったのではないかと危惧する。口頭による自己表現文化が弱体化しているから、古典的な王道である「音読」をテーマとした本が日本でベストセラーになったりするのではないだろうか。各家庭や、地域や学校で、声を出さなくなってしまった日本社会そのものが不健全になってしまっているように思えてならないのだ。昔は、小学校の横を通れば、子どもたちの音読や郡読の大きな声が聞こえてきたものだし、地域では、紙芝居屋のおじさんがいて、子どもたちに面白い話をしてくれたし、家庭なら、お正月など、百人一首やカルタを読む声が存在していたし、小学生だって面白い奴が「じゅげむ」の落語などを覚えては友人たちの前で披露していたものなのだが、今や日本は、そうした口頭による表現文化や話術が枯渇しつつあるのではないか。
 外国語教育といっても、コトバの文化、コトバの面白さを抜きにしては、語れない。日本の英語教育も全てが悪いわけではないけれど、ただ闇雲に語彙と文法を丸暗記しなさいというのでは、芸がなさすぎる。

*1:たとえば、日本語のアイウエオに対して、マオリ語は、アエイオウと順番が違うだけだ。