ところで、大変不思議なことなのだが、何故、マオリ語の初級クラスに、これほどマオリが多いのだろうか。日本人である私やハワイから来た若い女性のアリス(仮名)など、外国人の方が生徒としては圧倒的に少ない。
隣に座っているマオリのホアニに聞いてみると、知っていることと知らないことがあるので、凸凹を埋めるために受講していると言う。なんだか、わかるような、わからないような理由の説明だ。講師の文化的な説明を聞いていると、マオリといっても、統一感のあるものではなく、各マオリの集団ごとに、文化もコトバも違っていると説明している。私の推測としては、アメリカ合州国のマイノリティ優遇措置(affirmative action)のような、学生としてマオリが優遇されている政策でもあって、科目選択として、他の科目を取るよりもマオリ語が楽勝科目だというようなことがあるのだろうか。理由は全くわからないのだが、外国人であり、ノンマオリ(非マオリ)の私としては、先生もマオリだし、学級仲間もマオリが多いので、言葉を学ぶ環境としては抜群の環境という他ない。昨日の授業などは、マラエ(マオリにとって大事な聖なる集合場所)の体験談を、クラスで班討論をしたのだが、外国人の方が少ないから、いろいろな彼らの体験談を聞けるなど、間接的な文化体験としてとても重要だった。さらに、マオリの家に住み込みたいという要求を実は私は持っているのだが、都市化していてマオリらしい生活を体験しにくいとか、ハミルトンから遠くに行かないとむずかしいというような問題はあるだろうが、つてが全くないというような困難からはほど遠い。つまり日本のイギリス語教育のように、コトバの学習が抽象的なものではありえないのだ*1。
今日午前中に、マオリ学部に行くと、ハワイ出身の白人女性アリスに出会った。彼女はなかなかマオリ語の学習に熱心だ。一緒に講師のヘミの個室に行って、私がマオリ語の長母音のフォントをどうしたらコンピュータ上で表記できるか聞くと、マイクロソフトのワードなら、フォントを当てはめることができると、マニュアルをメモでヘミに書いてもらった。生徒の抱える困難が、こうして簡単に解決できる体制というのはなんとも素晴らしい。
*1:日本の英語教育の抽象性は、イギリス語が生活言語ではないことに大きく関係している。明治期の近代化の中では、かなり具体性を帯びていたのだが、英語教育の意義について、歴史的に検証する必要性があるが、いずれにしても、一般の授業の中でも、この「抽象性」を具体化させて教えないといけない。