初級者には、受動態は教えなくてもいいんじゃないかと言うけれど

 ところが講義の最後の方で、「どのような学習者が受動態を必要としているか」「受動態を教えるとしたら、どの年齢で、どのように教えるか」という問いかけがなされ、これに対する答えとして、今実際にラングエッジインスティチュートで英語を教えているオーストラリア人の女性は、「大学に来てアカデミックな勉強を必要とする学生」と答えた。
 「ええ、そうなの」「それじゃ、中学生や高校生に受動態はいらないんだ」と思いながら、担当教授ジョージの様子をうかがうと、大変驚いたことに担当教授はこの答えにほぼ賛成らしい。
 ジョージに言わせると、受動態を使いこなすのは、むずかしいというのである。
 私の気持ちとしては、「ええ、本当」という気分になった。これまでの応用言語学の講義は、私が学問的に深めていなくても、経験的に知っていることを講義でまとめてもらっていたという感じだから、驚くような新事実というものはなかったけれど、この見解には心底驚いた。
 それで、受動態を必要とする学習者には、使いこなすための練習方法として、インプットを重視し、どうしてここで受動態が使われているのか検証して、使うように練習をさせろという。
 受動態は政治的に逃げの論理として使われることが少なくないし、受動態を使いこなすことがむずかしいこともわかっているつもりだけれど、講義中にも担当教授自らが説明していたように、何を主語にもってくるかというのは、トピックの焦点をはずさないためにスタイルとして妥当なことも少なくない。
 受動態の場合、もちろん形としてはbyのあとに行為者がくることが普通だが、デビッド=クリスタル(David Crystal)に言わせると、受動態の8割がbyのない受動態であると、応用言語学の担当教授が説明していたけれど、やはり能動態と受動態とは同じというよりも、「視点」(perspectives)が違うということを強調した方がいいと思うのである。
 だから、受動態という奴を、同じ内容を言い換えているという言い方はやめた方がいいのではないかと個人的に思っている。その昔、中学生や高校生のときに、いわゆる書き換えをたくさんやらされたが、同じものではないという説明の方がより説得力があるのではないか。
 しかし、繰り返すけれど、いわゆるコミュニカティブアプローチなら、受動態を教える必要はなかろうという見解には驚いた。日本の場合は、話コトバよりも書きコトバが重視されるとすれば、受動態は必要だし、書きコトバの中では、書けなくても、最低限、読む際に何故受動態が使われているのか、深く読める必要があるだろう。こうした視点が否定されているわけではもちろんない。
 ただ、それでも、書きコトバでも10%くらいしか使われていないものを、コミュニカティブアプローチで使う必要があるのかというのだ。
 たしかに、カリキュラム上、時間が少ない上に、教えないといけないことは山ほどある。受動態を教える必要があるのか。あるとしてもどの程度のレベルまでというのが担当教授の問題提起である。
 受動態は文法の形として簡単な部類に入るが、受動態に対する母語話者のこうした感覚を知ることができたのは収穫だった。
 講義の最後に、講義に対するアンケート用紙が配られた。
 こうしたフィードバックが当たり前のようにやられることは、われわれが学ぶべきことだろう。
 こうして講義は終わったのだけれど、最後の課題提出が残っている。明日と明後日、担当教授に会って、課題の書き方についてガイダンスを受けようと思っている。