2学期の応用言語学の全ての講義が終わった

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 昨日の月曜日で応用言語学の2学期の講義が終わった。学会出張から帰ってきた担当教授による、代講した教授も参加しての最終講義である。昨日の講義は、「受動態」。受動態は、形からすると一見簡単に見えるが、その中にどのような問題があるかという内容だった。
 日本の英文法で重要な概念に、動詞の「自動詞」(intransitive verb)「他動詞」(transitive verb)という奴がある。
 例えばflyという動詞は、「自動詞」として使われることが多いが、たまに、「凧を飛ばす」(fly a kite)なんて場合は、「他動詞」として使う場合がある。自動詞が受動態にならないのは言うまでもないのだが、他動詞なら、ほぼ受動態にできると思う。ただ、昨日の講義の中では、日本人なら、「そんなことあたりまえでしょ」と反応するような問題が細かく論じられていた。例えば、growという動詞は、grow〜で「〜を育てる」という意味なら、〜に植物などが来て当然それは目的語を取っているから「他動詞」である。ただ、10センチなどの句が来た場合、「10センチ育った」というような意味となって、ことは簡単ではないという。これに関するチョムスキー(Noam Comsky)の見解は、「他動詞なら受動態にできる」「受動態にできるものは他動詞」という考え方らしく、私はチョムスキー(Chomsky)をほとんど学んではいないのでチョムスキー学徒とは到底言えないのだけれど*1、このチョムスキーの意見に対して私は反対できない。けれども驚いたことに、応用言語学の担当教授は、若干否定的なニュアンスでこれを紹介したので、講義中の討論で私は異を唱えたのだが、担当教授に言わせると、これは「循環論理」(circular logic)で「数学的」で、彼は好きではないと言った。「循環論理」だろうが、「数学的」だろうが、このチョムスキーの意見に私は納得できると食い下がったのだけれど全くの平行線であった。
 講義はすすみ、いわゆる「受動態」に対する、賛成反対のプロコンが紹介された。英語を学んだものはよく聞かされたことと思うけれど、行為者を明確にしないので、政治的に逃げの論理に受動態はよく使われる。あのジョージ=オーウェル(George Orwell)が、受動態はなるべく使わない方がいいという指摘をしたことは、それなりの意味がある。
 大体、作文の書き方なんかでも、受動態は使わないようにと薦めている本が多いと思う。話コトバでは受動態は使われないし、書きコトバでも10%くらいしか受動態が登場しないというのだ。
 ところで、私は初めて知ったのだが、そもそも受動態という奴は、12、3世紀頃から使われはじめたらしい。私は、「主語+述語+目的語」という強固なパターンが基本のイギリス語の中で、目的語を主語にする「受動態」はもっと古くからあるのかと思っていたから、これは意外だった。
 私に言わせれば、受動態は論理である。視点や見方が違うのはたしかであるけれど、「殺す側」もいれば、「殺される側」もいるのが世の中の常だから、能動態と受動態は補完し合う関係ではないかと思っていた。

*1:専門教養科目で、チョムスキーの深層構造、表層構造くらいは習ったけれど。