山形大学の学長選出で何が進行しているのか、邪推してみた

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 実は、上の記事は、次に引用する記事がなければ、日記に書く予定はなかった。
 私のコメントも、次の記事を読んでから、考えたことだ。
 以下も、asahiからの引用。
 

元文部科学次官・結城氏、山形大学長に 他候補は反発も
2007年07月26日


 山形大学は26日、学長選考会議を開き、次期学長に今月初めまで文部科学事務次官だった結城章夫氏(58)を選んだ。前日行われた、教職員投票による「学内意向聴取」では、候補者4人中、結城氏は355票で、小山清人工学部長(58)の378票に次ぐ2位だった。だが、学内外の委員で構成する選考会議が上位3人に絞って投票した結果、結城氏10票、小山氏4票と逆転した。

 結城氏とともに記者会見した選考会議議長の坪井昭三・山形先端医療研究所会長は、得票数が少なかった結城氏を選んだ理由について「視点が非常に広く、どうしたら山形大を特徴ある大学にできるのかということをはっきり表明した点がかわれたと思う」と述べた。

 一方、小山氏と、同じく候補者だった加藤静吾元副学長(62)の2人は連名で「決定は山形大の将来に大きな禍根を残す」とする声明文を発表。「(教職員の得票では1位でなかったという)客観的な事実を認め、就任要請を辞退すべきだった」と述べ、結城氏がこのまま就任する場合は法的措置も検討することを明らかにした。

 確かにこれは今の日本を象徴するような話ではないか。
 つまり、教職員投票による「学内意向聴取」の選挙結果という現場の意見があったとしても、「学内外の委員で構成する選考会議」なるものが、学内世論をひっくり返しているのである。
 これも全くの邪推に過ぎないけれど、この「学内外の委員で構成する選考会議」という会自体の判断は大丈夫なのか。

 「天下り」の問題が、これだけ批判されながら、「天下り」が止まらないのは、教育現場から「天下り」を歓迎する勢力が、すでに教育現場を支配しており、そうした勢力と天下る勢力とが呼応しているからに違いない。そして、重要で悲しいことは、そこには、誠実に教育を考える人たちが往々にして存在していないということだ。いわば当事者不在という現象が進行してはいないか。
 思えば、大学間競争が導入され、競争原理の中で、弱いところから、こうした中央とのパイプ的なコネクションを必要とする、権力になびく意見が強くなっているのだろう。そうしたパワーポリティックスの中での現象だから、これは教育とは一切関係がない。競争に負けそうな競争力のない大学に飴(カネ)をもってこれる手腕を買うという利益誘導の話でしかないのではないか。学内構成員からも「天下り」でいいじゃないかと開き直って、そこだけを見るようになったら、教育はおしまいである。今回の問題では、立候補要請をした勢力が学内に確実にいるに違いない。でなければ、次官経験者が学長選に立候補するはずはないのではないか。
 学内選挙第一位の候補者と同じく、候補者だった元副学長の「連名」による抗議とあるが、私はこの二人の人物を全く知らないし、応援するつもりもない。私は元文部次官であるという結城氏も全く知らない。そもそも問題は、人物の問題ではない。より根本的で重要な問題は、学長をどういうかたちで民主的に選ぶのかという点である。学内意見としての選挙結果がどう反映されるのかという点である。「学内外の委員で構成する選考会議」という会議体が民主主義の中でどう位置づくのかということも重要だ。
 繰り返しになるが、私は山形大学の状況について全く知らない。その意味で、情報もないのに、長々推測でものを書くことは、無責任のそしりを逃れることはできない。以上は、二つのasahiの記事だけで、「邪推」で書いたものだ。事実誤認の場合はすぐに訂正する用意ももちろんある。
 だが、本質論としては、ほぼ間違いないと思っている。
 これは山形大学の話ではないが、いま、日本の教育現場では、真面目に誠実に教育のことを考えている人々の存在や意見を無視して、「改革」なるものが進行している。どうして真面目に誠実に教育のことを考えている人々の存在や意見を無視して、パワーポリテックスだけが教育現場を支配するのかといえば、それは、土地売買や大型建造物の建設など、ゼネコンが大学を美味しい分野と見ているからだ。それに呼応する勢力が権力の座につこうとしたり、権力の座から降りようとしないことが、あちこちの大学で問題になっている。
 私たちは、「改革」という名のインチキにくれぐれも騙されないようにしないといけない。
 たいていの場合、それは、教育とは一切関係がないからである。