学力調査の平均点の公表によって、教育がゆがむことにならないか

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 全国学力調査の結果をめぐり、大阪府橋下知事が公表を求める問題で、吹田市長が反論をしている。
 吹田市長について、私は詳しく知らないが、経歴を調べてみると、自民・民主・公明・社民の四党の推薦を受けて吹田市長に三期当選した人物のようだ。

橋下知事に宣戦布告。教育は点数だけではない―吹田市
2008年9月19日

 全国学力調査の結果をめぐり、大阪府橋下徹知事が強く求める市町村ごとの平均正答率の公表について、同府吹田市の阪口善雄市長は19日、記者会見し、公表に反対する意向を市教委に伝えたことを明らかにした。「教育で点数だけに焦点を合わせる馬鹿なことはできない。知事に対する宣戦布告です」と話した。

 橋下知事の意向を受けて府教委は10日、市町村教委に平均正答率の公表を要請。これまでに堺、東大阪市など5市教委が公表を決めている。

 これについて、阪口市長は「公表の雪崩現象が起きている」とし、「教育の本質の論議が失われている。アホな大騒ぎにつきあっていられない。点数だけで評価できないのは自明の理。学校が塾になりかねない」と持論を述べた。

 橋下知事は公表するかどうかを予算編成の「重要な指標にする」としているが、阪口市長は「うちはいじめられても大丈夫。点数だけが正しいという風潮に警鐘を鳴らしたい」と話した。

 阪口市長は吹田市職員を経て、87年から大阪府議3期を務め、99年の吹田市長選で初当選し、現在3期目。

 自治体ごとの平均正答率の公表については、貝塚市の吉道勇市長も否定的な見解を示している。

 全国学力テストについては、検討しなければならない課題がたくさんあるけれど、そのひとつには、点数が一人歩きして、教育活動の大切な点をゆがませることにならないかということがある。
 教育活動の中で大事なことはたくさんあるけれど、そのうちの大事なことのひとつに、嘘をつかないというのがあると思う。
 たとえば、教育とは何か、深く考え、実践している教師がいるとする。
 その彼や彼女が、橋下知事が言うように、公表された平均点で、いろいろとクレームが出されるようになるとする。暗に陽に、圧力がかかるとする。
 彼や彼女が、教育とは何か、理想に向かって実践しようとしても、そんな理想より点数を上げることが大事と、社会的に包囲されたり、周囲から圧力がかかったり、学校内で、管理職からいじめられたり、いびられたりすれば、その教師は教育の理想を捨てて、自己保身のため、平均点をあげるように動き始めるかもしれない。
 てっとり早く「教育的に」点数を上げるには、出題予想を立てて、多くを教えず、繰り返し、ドリルに取り組ませることだ。
 頑張らないとダメだと生徒を励ますくらいならまだしも、度を越して恫喝するようになるかもしれない。
 試験当日、机間巡視しながら、生徒の書いた間違えた答案の解答個所について、指差し確認をして、生徒に知らせるかもしれない。
 強迫観念が高じれば、教師が正解を書いた紙を持って教室を回るとか、集めた回答の中で間違っているものを修正して点数を上げるとかが始まるかもしれない。
 点数の低い生徒に試験当日、休ませるようにするかもしれない。学力不振の生徒が点数を下げることになるのだから、こうした生徒が欠席すれば、点数は確実に上昇するからだ。
 しかし、こうした不正やインチキをやったら、教育はおしまいである。要するに、教育がゆがむという結末になるのだが、いま私が指摘したような現象は、1960年代の学力テストの際に、実際に問題が生じているのである。
 こんなことは識者にとって常識であろう。
 愛知県の犬山市は、教育的とはいえない学力調査に参加しないということで、連続して参加していない。全国の私立学校も、学力調査から撤退するところが増えている。
 予算的にも、10億円という莫大な税金を使っているが、全国学力テスト自体意味があるのか、問いただす声が少なくない。自民党内ですら、疑問の声があがっているのだ。
 点数がどういう意味を持っているのか、その議論を抜きにして、点数だけが一人歩きしては、教育はおしまいである。