「あんな死に方、もう二度と 高木敏子「ガラスのうさぎ」」

amamu2015-08-19


 朝日新聞夕刊の「時代のしるし 戦後70年」という欄で、高木敏子さんの「ガラスのうさぎ」が紹介されていた。
 わたしも以前読んで、本ブログで紹介したことがある。
 以下、朝日新聞デジタル版(2015年8月18日16時30分)から。

 先日、私の講演に来たことのある方から手紙をいただきました。「先生のおっしゃった通りになりましたね」と書かれていました。

 全国各地をまわった30年間、ずっと訴えてきたことがあります。「この国は油断していると『お手伝い戦争』をするようになる。だから、注意していないとだめですよ」。今、日本はまさにアメリカのお手伝いのために、戦争に行ける国になろうとしている。「蟻(あり)の一穴」と言うでしょう。憲法が守ってきたものが、ここから崩れてしまいそうで怖いんです。

 私の両親と2人の妹は、戦争で無残に命を奪われました。母と妹は東京大空襲で亡くなりましたが、お骨一つ見つかりませんでした。そんな死に方がこの世の中にあるのかって、悔しくてね。父は警防団の役員をしていて、母と妹と一緒に逃げられなかったことを悔やんだ。

 その父も、終戦の10日前、神奈川県の二宮駅で機銃掃射に遭い、殺されました。江戸切り子の伝統工芸師だったんですよ。47歳で、世が世ならたくさんの美しい作品を残していたでしょう。みんな戦争によって、志半ばで命を絶たれてしまった。70年の時が経っても私は絶対に忘れることはできないし、この話をするときは胸が苦しくなります。

 戦後にできた憲法9条は、私にとって輝く太陽のようでした。人々の命の犠牲の上に、日本は永久に戦争をしない国になった。これを、子どもや孫、孫の孫の世代にまで伝えなければ。それが「ガラスのうさぎ」に込めた願いです。

 出版の翌年から始めた講演は1300回を超えました。兄からは「講演なんかするな」と言われたこともありました。私も62歳で「アミロイドーシス」という難病を患うなど、ずっと病気と闘っていました。だけど私は、回を重ねるうちに「戦争を語り継がなければ」という機運の高まりを感じたのです。本を読んだり、講演を聴いたりした人が、一人、また一人、「絶対に戦争はしない」という決意を新聞に投稿してくれました。

 2000年には、一章ごとに難しい言葉の説明を書き加えた新版を出版しました。この前の年に、まだ小学生だった孫に「ガラスのうさぎ」を贈ったのですが、「難しい言葉がいっぱいある」と言われたんです。戦争を知る世代が減っていく中で、このままでは古典になってしまう。一人でも多く戦争をしない心を育てたいという一心でした。

 いま、社会が間違った方向に流されているように思えます。もう一度立ち止まって、日本という国がこのままでいいのかどうか、考えてみてほしい。

 危機感を抱いた若者たちが、国会の前で声を上げていますね。私はうれしかった。戦争の話をし続けてきて、やっと立ち上がってくれたんだと思いました。

 私が最後に伝えておきたいのは、戦争を起こそうとするのも、起こさせないようにするのも、人の心なのだということ。粘り強く交渉し、譲るところは譲り、話し合いで解決しなければ。戦争は人殺しですから、相手も自分も血を流す。その戦争を起こさせない心を、みんなで手をつなぎ、輪を広げて、守っていってほしいのです。(伊藤舞虹)

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 たかぎ・としこ 1932年、東京市本所区(現東京都墨田区)生まれ。作家。自らの戦争体験を書いた「ガラスのうさぎ」(金の星社)で厚生省児童福祉文化奨励賞、日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞。映画やドラマにもなり、注目を集めた。出版後は2006年まで全国各地を講演して回った。


 ■「ガラスのうさぎ」(1977年)

 太平洋戦争で家族を失った当時13歳の高木さんの実体験と、平和への願いをつづったノンフィクション。書名の「ガラスのうさぎ」は、江戸切り子の職人だった父が特別に作ってくれた置物で、東京大空襲に遭った実家の焼け跡から溶けた状態で見つかった。これまでに約240万部を発行した。