山田洋次監督が、本映画の製作にあたって、次のように述べている。
井上ひさしさんが、「父と暮せば」と対になる作品を「母と暮せば」という題で長崎を舞台に作りたいと言われていたことを知り、それならば私が形にしたいと考え、泉下の井上さんと語り合うような思いで脚本を書きました。
そういわれれば、使われている題字が、なんとなく井上ひさしさんの書く字に似ている*1。
今回、劇場に足を運んで「母と暮せば」を観てきた。
二宮和也さん、吉永小百合さん、加藤健一さん、黒木華さんら、俳優陣の演技がすばらしい。
坂本龍一さんの音楽も。
スパイ容疑で憲兵隊にひっぱられた息子を取り戻しに行く母親の場面にも心を動かされるが、福原兄弟の死に方はもちろんのことだが、浅野忠信さんが演じた黒田、小林稔侍さんが演じた復員局の職員の存在も、静かに戦争の意味を表現していた。
全篇を通じて、死を通じて生を表現するということなのだろう。日々の暮らしがていねいに表現されていた。
広島と長崎。
「父と暮せば」と「母と暮せば」。
ところで、詩人のアーサー・ビナードさんが「特別インタビュー」で次のように述べている。
広島に投下されたウラン爆弾、長崎に落とされたプルトニウム爆弾、このふたつの爆弾を「原子爆弾(Atomic Bomb)」として一括りに考えてしまいがちですが、実は製造工程も原料も仕組みも目的も何もかもが違います。天然のウランでは製造に電力がかかり過ぎるし、いつかは枯渇してしまいます。しかし、プルトニウムは人工的に増殖させることができるんです。つまり、長崎型原爆の技術は現代の原子力発電に直に繋がってくる問題なのです。
「母と暮せば」は、何度も観なければならない映画である。