「(文化の扉)今を照らす、井上ひさし 膨大な準備、克明な描写/無念の死を思い」

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 以下、朝日新聞デジタル版(2020年4月27日 5時00分)から。

 9日に没後10年を迎えた作家・劇作家の井上ひさしは、生き生きとした日本語で、奇想天外な物語や趣向を凝らした評伝劇を紡いだ。自ら「遅筆堂」と名乗ったが、その作品群は時代に遅れることなく、今も上演され、読まれ続けている。
 2月に「天保十二年のシェイクスピア」、3月に「きらめく星座」が上演された。前者は、シェークスピア全37作と侠客(きょうかく)の争いを描く講談「天保水滸伝」をないまぜにした大作。後者は、太平洋戦争直前の庶民の暮らしと非常時の空気を活写した名作だ。作品の構えは異なるものの、力強いせりふと巧みな劇構造は共通する。
 戯曲も小説もエネルギーとユーモアに満ちるが、一方で時代の病巣や人間の弱さを正面から見つめ、そこから逃げずに議論を交わし、よりよい世界をめざす人々を好んで描いた。東北の小寒村が独立国となる長編小説「吉里吉里人」(1981年)に見られるように、ユートピアを求め続けた作家だった。
 多くの井上戯曲を演出した鵜山仁(うやまひとし)さんは「最初は、なんて楽観的でいい人ばかり出てくるんだと思ったが、現実を明るくしてくれるものを舞台上につくらなくてどうする、という思いが井上さんにはあった」と話す。
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 上智大在学中から浅草のストリップ劇場で喜劇台本を書き、テレビ草創期には放送作家として活躍。市井の娯楽の作り手から国民的作家となった井上は、庶民の目線を大切にした。
 親交の深かった大妻女子大名誉教授の今村忠純さんは「無念の思いを残して死んだ人々への手向けの言葉」が、井上文学の本領とみる。山のような資料を読み込み、詳細な年表を作り、彼らが生きた世界を克明に再現した。敗戦前後の混乱をつづる日記体小説「東京セブンローズ」(99年)や、原爆投下後の広島を舞台に父の亡霊と娘を描く二人芝居「父と暮(くら)せば」(94年)の生々しさは、圧倒的なディテールに支えられる。
 今村さんは、創作から平和や憲法、日本語をめぐる論考までの足跡のうち、作家の特色を最も表すのは評伝劇だと指摘し、「イーハトーボの劇列車」(80年)をその最高峰に挙げる。「宮沢賢治への敬慕や、東北や農村の原点には音楽劇があると見通していたことも重要です。それも生死の間(あわい)にある農民たちが演じてみせる劇中劇、死者との対話は夢幻能。まさに発明です」
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 戯曲が完成せずに開幕延期を繰り返したが、三女でこまつ座代表の井上麻矢さんは「実は筆は速かった」と語る。折り目正しく論理的な劇を構築するため構成を熟考し、推敲(すいこう)にも時間をかけた。生前に「ほころびがあるまま世に出しても作品は長く愛されない」と語っていた。
 こまつ座で比較的少人数の芝居を書くようになった後期の作品をウェルメイドになったと指摘する声もあるが、「ペンの力だけですべてを描く。その決意と言葉の鋭さは初期作と変わらなかった」と麻矢さんはいう。
 生前の言葉で印象的だったのは「芝居は詐欺」。満面の笑みで、「作者が一行も書いていないのに切符を売るんですから」と続けた。東日本大震災やコロナ禍。理不尽な死が襲うとき、“誠実な詐欺師”の言葉はさらなる輝きを増し、人々を励ましている。(編集委員・藤谷浩二)

 ■希望で終わる物語 作家・若竹千佐子さん
 小学4年生のころに出会った「ひょっこりひょうたん島」が、私を決定づけました。名誉欲が強いドン・ガバチョはいまも私の脳内の住人なんですよ。
 面白いものを書きたい、悲しいものを書いても希望で終わらないといけない。そういう考え方は、井上ひさしさんを読んだお陰です。一つ挙げるなら、一人芝居の「化粧」です。母は捨てた子が帰ってこないかと思いながら裏切られる。希望から絶望、そして希望に向かう、どんでん返し。
 去年、初めて井上さんの故郷、山形県川西町に行きました。蔵書に丹念に書き込みをされていて、「遅筆堂」と名乗っていたのはすごい勉強をしてたからなんですね。いま、「化粧」をオマージュした作品を書こうとしています。自分でやってみて、あらためて井上作品の深さがわかりますね。(聞き手・井上秀樹)

 <見る> こまつ座の次回公演「人間合格」は7月6~23日、東京・新宿の紀伊国屋サザンシアターで。原田芳雄宮沢りえで映画化された「父と暮せば」、舞台「ムサシ」「組曲虐殺」などはDVDで見られる。

 <訪れる> 山形県川西町の遅筆堂文庫には蔵書資料約22万点がある。併設の劇場で井上ひさし作品が上演され、コンサートも催す。住んでいた千葉県市川市の市文化会館ロビーには井上ひさし記念室があり、書籍や遺品を展示する(いずれも休館中)。

 ◇「文化の扉」は毎週月曜日に掲載します。次回は「日本美術と模写」の予定です。ご意見、ご要望はbunka@asahi.comへ。