政治家の憲法擁護義務はどこに消えたのか

俺はドイツにまだ行ったことはないが、ドイツでは教師が自分の政治的立場を表明することは問題にならず市民的権利として保障されているという話を聞いたことがある。ドイツに行って確認したわけではないので実際のところはわからないが、もしこれが本当だとすれば、生徒も保護者も、市民として自立しているということになるのだろう。教師の政治的立場を聞いたとしても、それを批判的にみることができるという自信があるのだろう。もしそうであれば、市民的自由を、政治的教養という観点から考えるとき、ドイツの方が日本より数段上ということになるのだろう。
俺はドイツで教師をしたことはなく、日本の教師だったので、これまでの長い教師生活で、自らの政治的立場を、生徒や保護者に明確にしたことは一度もない。政治的“中立”の立場を十二分に守ってきたつもりだ。ただ、アメリカ独立宣言の意義や憲法の価値を教室で語ったことはそれなりにある。否、そうした人類の歴史的大義憲法的価値を尊重したうえで壇上に立ってきたという自負がある。私学の教師だったから公務員ではないが、教師としての憲法擁護義務を、守るべきものとして考え、行動してきたつもりだ。

けれども、まるで夢を見ているような日本の今のひどい政治状況に、「憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という、まさに憲法の精神に従って、意見表明や権利行使の行動をしなければならないと、背筋を伸ばし始めている。


立憲主義憲法下では、憲法 99 条が、憲法尊重擁護義務を、国民ではなく、大臣や国会議員、裁判官や公務員に対して定めている。にもかかわらず、いつの間にか、国民の眼の前には、一部を除き、壊憲勢力ばかりが跋扈しているのは、一体全体どうしたことか。政治家の憲法擁護義務は、いつ、どこで、どこに消えてしまったのか。

国会で偽証をおこ なった可能性が高いとされている佐川宣寿理財局長(当時)を、国税庁長官に出世させることも、すべて公務員は「全体の奉仕者」と定めた憲法 15 条に照らして違反しているように思える。こうした露骨に“論功行賞”に思える人事なんて朝飯前。憲法をないがしろにしてきた安倍政権だから、当然のことに過ぎないのだろう。

これまで、これほど、国民(国民主権)を愚弄する憲法99条違反の首相もいなかったのではないか。

モリカケ疑惑が疑惑でなしに図星だったのだろう。
国会での安倍首相の答弁を聞いていて、心底呆れることばかりだった。コトバに対する冒涜は、教育に対する冒涜、文化に対する冒涜に他ならない。圧倒的に多くの学識者、教育者、作家、映画監督、映画人、文化人が、憲法に対する首相の姿勢と態度と行動に対して批判的であっても、安倍政権は全く気にしない。

こうしてモリカケ疑惑隠しで国会を解散させる手法自体が違憲の可能性があるではないのか。その口実が「国難突破」とは、噴飯ものだ。
憲法を壊し続けた首相に改憲を語る資格があろうはずもない。さらに憲法を壊そうとする首相自体が国民にとっての国難といわざるをえない。
国難」とはお前のこと、「希望の党」とは「お前の希望」ではないのかと、この間、為政者や政治家の言いたい放題の放言を、全部、そのまま、発言者にお返しできる妄言が多すぎる。

さらに、安倍か小池かという争点隠しの宣伝をマスコミがあおっているが、自民党希望の党の広告塔の役割を果たしている評論家ばかりの状況は、いつか来た道、すでに大政翼賛会の状況に近くはないか。 各報道組織においては、心ある報道人の闘いもあるけれど、 真っ当な識者がテレビで使われることはすでにほとんどない。
小池百合子都知事も、安倍首相と同類の、否、さらなる独裁者、それ以上の壊憲論者に他ならないようだ。

覚悟が定まっていなかったとはいえ、そして遅きに逸したとはいえ、真の争点のひとつが立憲主義にあるということが、立憲民主党の立ち上げによって、ようやく明確になりつつある。数日前に、希望の党のそれは 1 万にも満たないのに、立憲民主党ツイッターのフォロアー数は、この 4 日間で、自民党を抜いて 11 万を超えたという。

けれでも、そもそも立憲主義が争点になるということ自体が(立憲主義がそれほどの争点になっていないことも含めて)異常なファッショ状態だと言えるのではないか。
代議士になろうという候補者は全て、憲法 99 条の憲法尊重擁護義務を負った上で、政策論争をすべきなのに、壊憲することを前提に、壊憲自体を「踏み絵」にしている。国民の税金(政党助成金)を上納金として「踏み絵」にしたり、論議もなしに黙って私に従えと、支配・被支配の関係性を「踏み絵」にしている。

「踏み絵」(大前提)にすべきは、憲法 99 条や憲法 15 条や憲法 9 条であろう!

壊憲勢力は、反民主主義勢力・反平和主義勢力に他ならない。壊憲勢力 に、国民の命と暮し、そして教育の自由を守ってくれる保証があろうはずもない。

 日本を戦争のできる国にするのか、否か。壊憲勢力を少しでも縮小させることが、国民の幸福実現につながることは明らかである。壊憲勢力ばかりが立候補する中、壊憲勢力に手を貸すことなく、憲法擁護の立場の、数少ない候補者を吟味しなければならない。
でなければ、戦争のできる国に日本が変質するのは、もうすぐそこ、眼の前である。