「俳句革新、民衆の心詠む 金子兜太さん死去」

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 以下、朝日新聞デジタル版(2018年2月21日05時08分)から。

 俳壇の長老で、戦後俳句を代表する金子兜太さんが20日、亡くなった。98歳だった。埼玉県熊谷市の病院に2月上旬から入院していたが、長男真土(まつち)さんとその妻に見守られて静かに息を引き取った。真土さんは「この年まで現役で俳句を詠みつづけ、よく頑張りましたね」と声をかけて頭をなでた。

 金子さんは「俳句にも社会性が必要」と同時代の思想や時代背景を積極的に詠み、時に実験的な手法も用いて俳句の革新を試みた。一方で、民衆の心をうたう詩として普及につとめた。悲惨な戦争の体験者として不戦を訴え続け、晩年まで政治や国際情勢に関心を抱き、きな臭くなる社会の行く末を案じていた。

 力強い作風の原点には、海軍主計中尉として赴任した南洋・トラック島での戦場体験があった。

 「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」は、15カ月間の捕虜生活を終え、日本へ帰る船上で作られた。戦争がない世の中をつくり死者へ報いるという決意は、「朝はじまる海へ突込む鷗(かもめ)の死」「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」など初期の作品から、近年の「左義長や武器という武器焼いてしまえ」にまで一貫した。

 2011年3月の東日本大震災後は、東北への思いも深めた。被災地の復興を気に掛け、震災関連の句に目をとめては「新聞の俳壇欄はジャーナリズムだ」と言い続けた。安全保障関連法案への反対が広がった15年には、旧知の作家澤地久枝さんに頼まれて揮毫(きごう)した「アベ政治を許さない」のプラカードが、全国のデモの現場で揺れた。

 1987年に朝日俳壇選者に就任して以降、毎週約5千の投句の全てに目を通し、新しい表現や詠み手を積極的に発掘した。好奇心旺盛で、17年夏には埼玉県の「原爆の図 丸木美術館」を記者と訪れ、受けた感慨を句に詠んだ。

 17年秋の朝日俳壇・歌壇全選者による歌仙(36句の連句)イベントにも参加した。イベント当日は欠席したが、「戦さあるなと起きて花野を歩くなり」と力強い発句を詠んだ。明るく親しみやすい人柄で、俳句以外の分野の人々とも交流を深め、世代を超えて慕われた。(小川雪、田中正一)