「言葉を「虐待」してきた安倍首相 連発しても重みなし」

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 以下、朝日新聞デジタル版(2020年5月24日 12時15分)から。

日曜に想う
 本腰を入れたものより、戯れのようにやっていたものの方が後世に残ることがある。たとえば久保田万太郎は本業の戯曲や小説より、「余技」だと言っていた俳句によって今はよく知られる。〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉
 アベノミクスよりもアベノマスクの方が後々、人の記憶に残るように思う。片や長期政権の屋台骨をなす経済政策であり、もう一方は側近官僚の思いつきとされる。だが巷(ちまた)の秀逸なネーミングも相まって、冗談めいた奇策と、首相ご当人の着装の印象はなかなかシュールだ。
 むろん万太郎の句はすぐれているから名が残るのであり、不人気なマスクとは逆の話。ともあれ窮屈なマスク顔で、あるいはマスクを外して、安倍晋三首相は様々に語りかける。しかし言葉が心に響いたという話はあまり聞かない。
 言葉を弾丸にたとえるなら、信用は火薬だと言ったのは、作家の徳冨蘆花(ろか)だった。火薬がなければ弾は透(とお)らない、つまり言葉は届かない、と。数を頼んで言葉への横着を重ねてきた首相に、もはや十分な火薬があるとは思われない。弾も自前ではなく大抵は官僚の代筆である。
 丁寧、謙虚、真摯(しんし)、寄り添う、といった言葉をさんざん「虐待」してきたのはご承知のとおりだ。いま、危機のときに言葉が国民に届かず、ひいては指導力が足りないと不満を呼ぶ流れは、言葉に不誠実だった首相が、ここにきて言葉から逆襲されている図にも見えてくる。
     ◇
 1年前、元号は令和に替わった。選考の過程で、国書を典拠にしたかった安倍首相は「万葉集っていいね」と語ったという。令和の出典と同じ万葉集の巻五には「大和の国は……言霊(ことだま)の幸(さきわ)う国」という名高い詩句がある。言葉に宿るゆたかな力で栄える国、という意味だ。
 万葉の昔から時は流れて、政体は民主主義へと変遷した。民主政治は血統や腕力ではなく言葉で行われる。リーダーを任ずる者なら、自分の言葉を磨き上げる意欲を持ってしかるべきだろう。
 ところが首相には、言葉で合意をつくったり、人を動かそうとしたりする印象がない。数で押し、身内で仕切れば言葉はもはや大事ではなくなるのか。国会では早口の棒読みか不規則発言。スピーチなどは「国民の皆様」と慇懃(いんぎん)だが、中身は常套句(じょうとうく)の連結が目立ち、「言霊」を思わせる重み、深みは感じられない。
 作家の故・丸谷才一さんが14年前、安倍氏が最初に首相に就いたときに、新著「美しい国へ」の読後感を本紙で述べていた。「一体に言いはぐらかしの多い人で、そうしているうちに話が別のことに移る。これは言質を取られまいとする慎重さよりも、言うべきことが乏しいせいではないかと心配になった」
 辛口の批評だが、老練な作家の洞察力は、後に多くの人が気づく「首相の言葉の本質」をぴたりと言い当てている。
     ◇
 家ごもりの一日、版元から頂戴(ちょうだい)していた梶谷和恵さんの詩集を手に取った。巻頭に置かれた「朝やけ」と題する3行の短詩に、いきなり引き込まれた。
  どうしよう、
  泣けてきた。
  昨日は 続いている。
 明けゆく空を見て湧く感動とも、昨日をリセットできない屈託とも読める。
 後者と想像すれば、今の多くの人の心情を表しているかのようだ。コロナ禍の緊急事態宣言が解除されても翌日すべてが変わるわけではない。長期休校が続く子、収入の絶えた人、資金繰りに悩む経営者――誰もが事情を抱えながら閉塞(へいそく)感のなかで次の朝を迎えている。第2波への恐れも社会を陰らせている。
 そうした状況に向けて、首相は強い言葉をよく繰り返す。「躊躇(ちゅうちょ)なく」は連発ぎみだし、ほかにも「積極果断な」「間髪を入れず」「一気呵成(かせい)に」など色々ある。「力の言葉」を、「言葉の力」だと勘違いしてはいないか。
 川を渡る途中で馬を替えるな、は危機を乗り切る常道だ。しかし「コロナ後」という時代の創出は、新しいリーダーを早く選び出すかどうかの選択から始まろう。すべては民意にゆだねられる。(編集委員・福島申二)