「権力ゲームになった政治こそ「国難」 高村薫氏が指摘」

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 以下は、朝日新聞デジタル版(2017年10月4日10時38分)から。 

 森友・加計問題で追い込まれた安倍晋三首相の突然の解散。小池百合子東京都知事の新党結成で加速する野党再編。混沌(こんとん)とした政治の底流には、一体何があるのでしょうか――。

 作家の高村薫氏(64)は政治が権力ゲームになってしまった現状こそ、「国難」だと指摘します。

 解散総選挙は、ときの政権与党がこれまでも自身に一番有利なかたちで行ってきたことですし、いまさら「大義」をうんぬんするつもりはありません。政治の姿をメディアとネットがこれでもかとあぶり出してしまう今日、身もふたもない欲望と権力ゲームの産物が政治だということを、私たち有権者もいやというほど知っているのです。

 解散にまともな理由を求めるのはむなしいといっても、臨時国会冒頭の所信表明演説や代表質問さえ行われなかったのは、議会制民主主義政治の否定そのものです。安倍政権のこの政治姿勢は厳しく問われなければなりません。

 この解散は、政権にとって不都合な懸案への追及をかわしたいよこしまな意図と、野党の混乱と弱体化につけこんだ先手必勝の計略があまりに露骨です。さすがの有権者も白けるほかありませんが、政治がここまで平然と権力ゲームに血道を上げるだけの代物になってしまった現状こそ、「国難」と呼ぶべきです。

 もちろん、近代の政治が、国民の多様な価値観や意見を集約・調整して、正しく公共の精神を体現するものであったかどうかは、疑問です。資本主義と金融経済が、国民の幸福という漠とした目標を蹴散らしてしまったいま、政治家は利益誘導と権力ゲーム以外の存在理由をもちません。

 しかも、こうした政治家の行動原理は日本に限ったことではなく、アメリカをはじめ世界で見られるようになっています。自国ファーストを掲げる一方、それが引き起こす利害の衝突や矛盾、虚偽、欺瞞(ぎまん)への目配りはないのです。

 日本でも、安倍晋三首相の手前勝手な個人的歴史観に基づいて、教育基本法改正、国民投票法特定秘密保護法、安全保障関連法、そして「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法が次々に成立、施行されました。

 戦後の出発点において、日本は侵略と敗戦の「戦争責任」をきちんと総括できませんでした。その結果、私たちは戦前と戦後の歴史を確定することができないまま、勝手な歴史解釈の横行を許しているのです。安倍政権はもちろん、衆院解散を機に新党を立ち上げた小池百合子都知事も、清新な装いの下は、筋金入りの右派の中の右派です。

 300万人を死なせた戦争の総括すらできなかった国に、まともな政治を望むこと自体、むなしいということかもしれませんが、それをかみしめている政治家が、この国にどれほどいるでしょうか。

 新党「希望の党」に、野党第1党の民進党の大半が吸収されてしまい、リベラルな有権者はいよいよ選択肢を狭められることになりました。自己保身のために政治信条を曲げてでも新党に駆け込んだ政治家たちを、笑っている場合ではありません。

 教育勅語を否定しない安倍首相と、これまでも権力ゲームに興じ続けてきた小池都知事の一騎打ちとなった選挙に、私は心底、青ざめています。リベラル新党に希望をつなぐことになるのでしょうか。(聞き手・小林孝也)

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 たかむら・かおる 1953年、大阪市生まれ。商社勤務を経て作家に。93年に「マークスの山」で直木賞を受賞。近著に「土の記」など。