「(多事奏論)「議論」という言葉 首相の「売り文句」を奪い返せ」 

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以下、朝日新聞デジタル版(2019年7月17日5時0分)から。

編集委員 高橋純

 テレビの通販番組をつい、見てしまう。言葉の使われ方が実に興味深い。たとえば、補正下着の類いを売ろうとするとき。

 「スタイルアップを目指せます」

 どういう状態を指すのかよくわからない造語をひっぱり出し、でも、それすら「できる」とは言わない。あくまでも「目指せる」として売り手の責任を回避、そのうえログイン前の続きで、「心はウキウキ」などと商品の効能とは本来関係ない精神作用をアピール、出演者はたえず「すごい!」「買わない理由がない!」と喚声をあげ、畳みかける。

 うまい。あざとい。侮れない。

 つくづく思う。世の中には、現状に漠とした不安を抱き、だからこそ、結果はどうあれ、とどまることなくとにかく前へ前へと進んでいる感じを持ちたいと願う人が大勢いて、ゆえにこのような「売り文句」が横行するのだろう。そう、このような。

 「私たちはこの5月、令和という新しい時代を迎えました。新しい時代の憲法のあるべき姿について、議論することは私たちの責任ではないでしょうか。しっかりと議論をするのか、議論をしないのか。未来に向かって前に進んでいくのか、まったく進まないのか。それを問うのがこの参院選挙です。皆さん、前に向かって進んでいこうではありませんか」(安倍晋三首相、6月30日、インターネット番組の党首討論で)

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 改元憲法に何か関係があるのか。わからない。憲法改正の議論がなぜ、未来に進むことになるのか。わからない。憲法のあるべき姿? スタイルアップ目指してガードルでも履かせるつもりか。

 思えばこの6年半、わからずじまいでやむなく、心のタンスの奥にしまいこんできたことがたくさんある。集団的自衛権の行使容認に際し、首相が記者会見で示した、赤ちゃんを抱く母親に不安そうな表情で寄り添う子どものイラスト。あの母子はいまごろどこで何をしているだろうか。日本を取り戻す。この道しかない。国難突破――。

 「わからない→放置」を繰り返すと、わかろうとする意欲が減退し、そのうち何がわからないかすらわからなくなる。「いまここ」しか見えなくなる。そういう状態の上に、首相が誇る「政治の安定」はあり、裏を返せば、参院選への関心の低さがある……なんて分析、いまは結構。選挙は虫干しと断捨離の重要な機会だ。主権者が消費者のごとく振る舞っていては、〈※個人の感想です〉レベルの政治が駆動し、そのうち権力者から注文してない商品が返品不可で続々届く……なんて独裁、永遠に結構。

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 さてこのたび、首相のおかげで気づいたことがある。「議論すらしない」という批判は、野党が与党に向けても「負け犬の遠吠え」としてほぼスルーされるが、与党が放つと、野党を確実におとしめることができる。そのような非対称が生じるのは、この国の民主主義の土俵がすでにゆがんでいるからだと言わざるを得ない。

 議論は民主主義の根幹だ。しかし、議論を真に成立させるのは難しい。異なる意見や価値観を、時間をかけてすり合わせ、何とか妥協点を見いだして折り合う。その意志と行動を欠いていたら、どんなに言葉を重ねても、それは議論とは言えない。

 どうだろう。この6年半、議論を軽視し、採決を強行し、時に憲法をも無視して、土俵を使い物にならなくしてきたのは他ならぬ首相である。その当人に「議論しないのは責任放棄」と挑発されること自体情けないが、そんなものに易々と乗って、ゆがんだ土俵と知りつつ「上がらなきゃ」と腰を浮かせている人々は、よく言えばお人よし、悪く言えば間抜けである。

 まずは「議論」という言葉を奪い返し、熟議の土俵を作り直さなければ始まらない。それは選挙の勝ち負けを超え、この国の民主主義をかけた闘いである。

 準備はOK? しからば、共に進まん。

 (編集委員