「(日曜に想う)民主主義の「靴磨き」のときだ 編集委員・福島申二」

以下、朝日新聞デジタル版(2019年7月14日5時0分)から。

「溢(あふ)れた水はやがて乾く」 絵・皆川明

 他人を指さす時は、残りの指が自分をさしていることを忘れるな、と言った人がいる。まさにそのとおりで、人に向ける非難や誹(そし)りは、しばしば自分自身にもあてはまる。私もそうだが、自省の苦い思いとともにこの警句にうなずく人は結構多いに違いない。

 参院選が公示された4日、安倍晋三首相は第一声でこう訴えた。

 「私たちのように議論する候補者、政党を選ぶのか、審議をまったくしない政党、候補者を選ぶのか……」。国会で憲法議論が進んでいないことを述べたくだりだが、これなどは、残りの指が自分をさしている一例だろう。

 政府与党こそ国会を軽んじて、議論に背を向けてこなかったか。モリカケ疑惑など都合の悪いことや、年金など国民の関心事の質疑応答からは逃げてきた。そうした一切を棚に上げて自分の関心事については議論か否かと迫るのだから、相当丈夫な棚をお持ちである。

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 公示の前日、日本記者クラブでの党首討論会では、こんな一幕があった。

 質問者がテーマごとに挙手で賛意を示すよう求めた。選択的夫婦別姓制度などを「認めるか」と問われて首相は手を挙げなかった。そして「単純化してショーみたいにしないほうがいい。政治はイエスかノーかではない。あんまり印象操作するのはやめた方がいい」と不快感を表した。ごもっとも。でも、それらは政権のいつもの手法ではなかったですか――とブーメランは返ってくるだろう。

 「令和」の発表や米大統領訪日などでは、政治ショーめいた場面を随分見せられたものだ。数を恃(たの)んだイエスかノーかの採決強行には何度もため息をつかされてきた。批判や疑問の追及に対して「印象操作だ」と言い返す印象操作は、首相周辺の常套(じょうとう)手段といっていい。

 私感を述べれば、安倍首相は他人に指先を向けることが目につく人だ。

 秋には歴代最長の総理大臣になろうという人にして、いまだに相手をさげすむことで自身を誇るようなふるまいが止(や)まぬのは不思議である。そうした人は往々に自分への批判には敏感なものだ。ヤジを嫌っての選挙演説日程の非公表などはその表れとも言えるだろう。

 見えてくるのは、首相には、反対者をも含めて国を代表していく姿勢が乏しいことだ。「自分の支持者、賛同者しか代表できない人間は、どれほど巨大な組織を率いていても『権力を持つ私人』以上のものではない」と、思想家の内田樹(たつる)さんが一般論として述べていたのを思い出す。そうした狭量に権力全体が忖度(そんたく)して染まり、民主主義を傷めているのが今の政治の光景ではないのだろうか。

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 大正から昭和の川柳人だった前田雀郎(じゃくろう)に〈磨く他ない一足の靴である〉という一句がある。くたびれた一足きりの靴しかない貧乏暮らしのボヤキのように読めるが、別の解釈もできる。

 一足の靴とは作者自身であって、自分という靴を脱ぐことはできない。磨き続けて生きていくのだという覚悟として読めば、味わいはいっそう深い。

 国民にとっては、国の政治も、民意によって磨き続けるほかない一足の靴といえる。他国の政府に履きかえるわけにはいかない。汚れたら泥をぬぐい、傷んできたら革を張り替える。人を選び政党を選ぶ国政選挙は民主主義の靴磨きのときだ。良い靴を履けば、より多くの人が安心して遠くまで歩いていける。

 与党だけでなく野党もだが、私たちがいま目撃しているのは、政治家と政治の小児化に思われる。たるんだ人、うわついた人、思い上がった人を緊張感に漬け込んで国政にふさわしい成熟をもたらすのは、民意のまなざし以外にない。

 「暮しの手帖」の伝説的な編集者、花森安治が言っていた。「国家とか日本というものは、ぼくたちのはるか上空にひらひらしているものではないのだ。ぼくたちみんなが、こうして毎日必死になって、まともに暮(くら)している。そのより集(あつま)りが日本だ、日本の国だ」。大勢の思いを代弁するように今も響く。政治家が思いを遂げることが政治なのではない。