「カンボジアはどうなっているのか?」本多勝一(1978)を購入した。
本書の「あとがき -「ハズ社会主義」への訣別を」で、著者は次のように「あとがき」を始めている。
ジャーナリストの中でも私の最も尊敬する一人・小和田次郎氏は、その近著の中で次のように書いています。
取材する前から結論が先にあるなら取材する必要はない。機関紙記者たちの演繹的手法による取材は、しばしば政府や党や組合指導部の予め出された方針に合う事実集めに終り、それに反する事実はみんな捨て去ってしまう。それではおよそジャーナリスト活動と言えるものではない。それこそ、現実から学ばず、現実によって自分たちの世界観を検証しようとしない保守主義というべきだろう。
その種のPR記事やアジテーション記事が、時たま民衆を煽動するに役立ったとしても、その効用はつかの間にしかすぎない。世界観優先、イデオロギー一辺倒の信念居士ジャーナリストたちが一九六〇年代の初め中ソ対立にとまどい、いままた中国、ベトナム、カンボジアの対立抗争にとまどっているのは何故か。歴史的事実の中で自分の説に都合のよい事実だけを拾い集める歴史観、国際情勢観が事実の流れそのものによってしっぺ返しを受けているといえるのでしょう。もっとも、右向け右式に上の方から国際情勢観の修正があり、その日からやれ「ベトナムが悪い」「いやカンボジアが悪い」と平然と切り換えられるとすれば、またなにおか言わんやです。これまたジャーナリストにとって縁もゆかりもないものです。
ジャーナリストがPR屋やプロパガンジストでないためには、いつでもどこでも、「結論に合う取材」から自由になること、さらに自分の先入観、仮説を大胆にぶち壊す用意を常にしながら取材することが必要だと言いたいのです*1。
(後略)
(p.299-P.300)
*1:小和田次郎『ジャーナリストへの条件』蝸牛社