「外国語の学び方」渡辺照宏(1962)を読んだ

 「外国語の学び方」渡辺照宏(1962)を読んだ。

外国語の学び方(1962)

 初版本は1962年度版だが、わたしのものは、第24刷の1981年度版。

 たいへん地味な本だが、英語を学ぶ際に考えるべき諸問題がていねいに解説されている。だからこそ版も重ねているのだろう。

 外国語の場合、「どの程度まで練習すればよいのか、それを測るモノサシが見あたらない」とか。「基礎単語1,000」とか。「外国語のたっしゃな人」は「ひとり残らず勉強家」であるとか。「単語を必要な数だけ知らなければ手も足も出ません」であるとか、基本的な問題・課題がていねいに綴られている。

 「ねてもさめても」という箇所には、次のようにある。

外国語の勉強と自国語の勉強とは本来は同じものなのです。自国語は赤ちゃんの時からいやおうなしに習ってきたし、外国語は大きくなってから意識的に努力して習うという違いがあるだけです。外国後がいやだとか面倒だとかいうのは、すでにもう大きくなって自分では一人前になったつもりでいるあなたが、もう一度赤ちゃんに格下げになるという点なのです。(p.36)

 なるほど。

 また、単語がなかなか覚えられない。覚えても忘れるというところでは…。

覚えては忘れ、忘れては覚える、ということを何度でもくりかえしているのです。…すべってころぶのがいやならスケートやスキーはおやめなさい。覚えた単語を忘れるのがいやなら外国語には手を出さないことです。(p.12-p.13)

 つまり、地味な努力によって、ある程度まではやれるというのが外国語学習なのだと。

 こうして考えると、他の遊びや芸事とまったく同じで、ふつうの能力のあるものならば誰でも、ある程度の努力によって、ある程度まではこぎつけることができる、ということは明らかです。(p.15-p.16)

外国語のむずかしさというものも、分析してみれば、単語をひとつずつ覚えることと、単語をくみあわせて使う法則、つまり文法を知ることとのふたつの点に要約されるようです。(p.15)

 それはそうだったと深くうなづいたのは、ヴィゴツキーの外言と内言の話を思い起こさせる次の叙述だ。

 言葉は心の中で考えていることを表現する時に使う道具だといいます。しかし言葉はただの道具ではありません。言葉なしには何ひとつ考えることもできません。はっきりした言葉で言いあらわされない考えは、考えとしてもはっきりしてはいません。考えが考えとしてまとまるためには言葉の形をとらなければなりません。口に出して言おうが言うまいが、言葉なしには考えるわけにはいきません。(p.36-p.37)

もしあなたが外国に暮らしているとすれば、始めから心の中で"It rains."*1と考え、人に聞かれたらばやはりすぐ英語で答えるでしょう。こういう習慣がつけば、あなたは夢の中でも英語を使うことになります。朝、床の中で「さあ何をしようか」と考える代りに"What shall I do now?"と考えるのです。私が24時間主義と名づけるのはこのことです。(p.37)

 そう。外国語に集中して学ぶときは、日本語を頭から追い出さないといけません。喋らないときも、外国語で考える。そうしないと、とっさに外国語なんて口から出て来ません。蘭学を学ぶ青年たちのエピソードも納得させられる。

 幕末に蘭学(オランダの学問)がさかんになって青年が集まって勉強していた頃、会合で日本語を使ったたびに罰金をとる約束をしたそうです。ところがその中のひとり(たしか高野長英だったと思います)が一度も反則をしないので、階段の上から突きおとしたら日本語で叫ぶだろうと仲間のひとりが押したところ、とっさのまにオランダ語で「あぶない」と叫んだので仲間はみな呆れかつ感心したそうです。外国語を学ぶものの心がけはそうであって欲しいと思います。言葉は口先だけの問題ではなくて、あなたの心の動きが外国語の流儀に慣れれば、自然に口をついて出るようになるし、そうでなければ外国語を満足に話すこともできないわけです。(p.37-p.38)

 本書には、地味な書き方ではあるが、反論のしようもない、当たり前のことがていねいに書かれている。その分、新書にしては分量も多い。

外国語が本当にわかるというのは底無し沼のようだ、とさえ思われることがあります。私の経験から言うと、外国語の勉強は得意と絶望とのはてしない交錯のように思われます。(p.141)

 他に引用したいところもあるが、今日はこの辺で。

*1:「「雨が降っている」と考えるときに」と原文にあるので、この場合は、"It's raining."のほうが適切と思うが。