松本道弘「上級をめざす英会話」(講談社現代新書)を購入した。
いろいろと参考になることが多い。
英語を話すとは勇気の要ることだ。上手か下手か、内容があるのかないのか、証明されるからである。証明(proof)とは、平たく言えば見えないものを第三者にも見えるようにすることである。証明しようとすれば、自らの英語を第三者の眼に晒すことになるので、リスクが生じる。(p5)
多くの日本人は、英語の先生に始まり、ビジネスマン、ジャーナリストを含め、リスクを避けるために、英語を話そうとしない。英語の4技能のうち、最も憧れているのがスピーキングであるのに、最も恐れ、最も苦手とするのもスピーキングである。(p.5)
英語が話せる人間の中には、ネアカ人間が多い。なぜか。英語を話す人は、恥をかくことをおそれてはならないことを人一倍経験を通じて知っているはずであり、その過程において、発想の転換を行なっているはずである。(p.21)
英語をやれば、この守護霊(「古代ギリシャに端を発するシンメトリカルな論理」のことー引用者注)に取り憑かれるので、周囲の”空気”に左右されず、独立志向が身につき、物事を科学的に考察したり、個性を埋没させることなく、眠っていた創造性を駆使し、自由人になれるのだ。(p.22)
「斬れる英語」をめざす人は、give と get により英語のリズムを鍛えておく必要がある…」(p.35)
黒帯英語を目ざすならgive と get の表現に挑戦すべきだ。(p.37)
斬れる英語とは、パンチの効く英語である。パンチのするどさはリズム感のない学習者には感じられない。(p.38)
ここでスピーチの大家といわれたマーチン・ルーサー・キング牧師のスピーチを聴いてみよう。
(MLKの "I Have a Dream"演説の一部分の引用)
私は、かつて朝眼をさますと同時に、この力強いスピーチのカセットをかけて、オレもやるぞとハッスルしたものだ。
使われている英語が、日本の高校生がスピーチで使う英語よりも簡単なのに、なぜ世界的に知られる名演説になっているのか。そこにハートがあるからである。絵になる英語とは、聴衆の minds のみではなく、hearts に訴えるものでなくてはならない。(p.41-p.42)
ボキャビル派は、短期決戦型で、筆記試験のための詰め込みには強いが、覚えた単語がデジタル風に頭脳の中に貯蔵されているので検索が困難である。(中略)
シンビル派は、その反対に一夜漬けには弱いかもしれないが、速読、速聴で鍛えた英語のかたまりが、アナログ的にストックされているので、一つの単語を検索しようとしても関連表現が情報と共にいもづる式に出てくる。自然に身についた英語だから忘れにくい。(p.53-p.54)
このように、日常会話の時ですらif とか assuming とか supposing という黒帯英語をふんだんに使い、議論をしたり、devil's advocate を演じたり、お互いの仮説を検証しあい、会話を進めていくことになれば、有段者である。(p.65)
単語を追うのではなく、シンボルを追えば、自然に英語が話せるはずだという仮説を導き出した。たしかに、同時通訳をしている間は、耳から入る英語は文法や言葉の意味を翻訳したり、分析したりする余裕はなく、通訳者自身も文法を組み立てているヒマもない。極端にいえば、考えれば、同時に訳せないのだ。
最初のうちは、自分の訳した日本語と英語をテープで聞いてみると、何度も泣きたくなった。だがこれを繰り返していくうちに、自然に言葉が耳から入って、自然に他の言言葉に移し換えることができるようになってくる。
読者に申上げたいのは、同時通訳のプロになる必要はないが、同時通訳者の発想で英語を学べば、英語がきっと軽くなり、使いやすくなるということだ。同時通訳を辞めてから久しいが、日本語でも英語でも難訳語に出くわすと、はて同時通訳をしている時ならどう訳すだろうかと考え、一瞬緊張し、集中する。私がよく口にする集中思考(concentrated thinking)は同時通訳の経験から生まれた。英語をシンボルから学ぶ方法は同時通訳が一番近道である。なぜなら、同時通訳とは、言葉のシンボルを扱う知的作業だからだ。(p,173)
同時通訳のプロになる必要はない。だが英語のスピーキングに強くなりたければ、独りでも同時通訳に挑戦すべきだ。人間だれしも、なまけやすいもので、少なくとも1日に20分でもいいから、日本語のテレビ番組を見ながら英語に同時通訳するなどして、思考を集中させる習慣をつけてはどうだろうか。(p.174)