二日前に、日本の「最近の新聞報道で、最近の子どもが勉強しなくなっているというけれど、面白いフィールドと面白い勉強がなくなってきているからではないか。勉強しなくなってしまったことを、子どもだけのせいにするのは、全くのお門違いだ。子どもを非難する前に、どうして面白い体験や実際の見聞や交流することが少なくなってしまったのか、大人が反省しないといけない。
大体、地学にしても、生物にしても、ニュージーランドにはとても面白いフィールドが少なくない。
例えば、ワイオタプやワイマングーのように、そもそも理科に興味のない奴でも勉強したくなるフィールドがたくさんある*1。
アレックスは、鳥のこと、魚のことなどよく知っているけれど、彼は、おそらく学校で勉強したわけでも、本で勉強したわけでもなさそうだ。彼の話は、実際の見聞と体験と、仲間との交流で得た知識から来ている。その意味では、知恵と言った方がいいのかもしれない。そうした知恵だから、彼の話はとても面白い。他人に聞かせるだけの内容を持っているのだ。日本の悲しいところは、内容が空疎なことだ。たとえば、受験勉強をして得た知識を他人に話して、聞かされた方は面白がるだろうか。私の観察では、日本は実に内容のない国になってしまっているのだ」と書いたら、今日の毎日新聞で、日本の学力低下問題が報じられていた。
「日本の15歳(高校1年生)の読解力低下をあらわにした経済協力開発機構(OECD)の03年学習到達度調査(PISA)。読解力だけでなく、『1位グループ』(文部科学省)とされた数学的活用力でさえ『明らかに低下している』ととらえる教育関係者も少なくない。試験と同時実施の意識調査からは、成績はよくても勉強への関心が低い生徒像や、生徒から当てにされない学校像も浮かび上がった」と、報じている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041208-00000000-mai-soci
記事は続けて、「『学んだ数学を日常生活にどう応用できるかを考えている』にいたっては12.5%とニュージーランド60.5%の約5分の1だった」というが、悲しいけれど、当然だろうと思う。
前にオーストラリアのメルボルンやホバートでの高校レベルの日本語授業を見学したことがあったのだが、オーストラリアの学生の方が、学校の勉強を信じているなと感じたことがあった。
授業でやっていることは同じなのだ。単語を教え、文法を教え、練習をする。コトバの授業で、魔法のような授業はない。結局地道な作業だ。
ところが、学んだあと、どう使うかという話になると、オーストラリアの学生の方が、日本語を使って、こうする、ああするというのが明確であるという印象を受けた*2。
大体彼らは外国語が選択性だ*3。中国語やフランス語、ドイツ語なんかを選ばずに日本語を選んでいるオーストラリア人の学生だから、動機づけが多少ある方が普通だ。
俺の印象だと、おそらく日本人の方が、英語の単語力などはあるように思う。
けれども、肝心なことは、日本の学生の問題意識の中には、英語を学んでどうするのかということがほとんど欠如していることだ。
問題意識なく、やらされている。問題意識なく、単語を詰め込んでいる。だから、俺のオーストラリア人の同僚などは、日本人の学生は単語を貯水池のように溜め込んでいるのに、どうして実践的な立場に立てないのかと、日本をよく知らないときには、不思議がっていた。
そう、日本は不思議な国なのである。勉強が実生活とかなり乖離している実に不思議な国なのだ。
だから勉強というものが、入学試験のためのパズルやクイズに堕してしまっている。当然、学校の勉強なんて、学生は信用していない。英語の授業なんかは結構役に立つのに、である。
日本でつまらぬ勉強をしている奴は、極端に言えば、上昇志向がまだ可能な体制順応型の、ごく一部の人間になってしまっているようだ。彼らとて喜んで学んでいるわけではないから、始末が悪い。
学んだことを日常生活にどう応用できるかなんて、日本じゃ、雲の上の話になっているのではないだろうか。
岩波新書の「学力があぶない (岩波新書)」の共著者の上野健爾・京都大大学院理学研究科教授(数学)が、「悲惨な結果だ。勉強の面白さを理解できなければ、知識が頭の中を通過するだけで、分数も分からない大学生を生むことになる。学習指導要領改訂で教科書が薄くなり、子どもの関心を呼び起こす内容が削られてしまったことも一因だ」と語ったというが、このコメントも当然だ。
大体、日本の文科省は、こうした信頼にたる識者の主張に対して一貫して聴く耳を持たない。
これじゃ、深刻な問題が解決するはずがない。自分たちの責任で問題を放置しておいて、嘆くふりをするのは実に噴飯ものだ。
「『低い学校への信頼、満足度』ということでは、授業で先生が支援してくれていると生徒はどれぐらいみているか。生徒への意識調査結果を13カ国(欧米など主要7カ国と今回成績のよかった香港など)で比べると、日本は『(先生は)生徒一人一人の勉強に関心がある』『意見を発表する機会を与えてくれる』など数学教師による支援度を問う5項目のいずれでも、『いつもそうだ』と全面肯定する生徒の割合が平均より低かった。5項目を平均すると13カ国で最低だった」と報じている。
情けないが、今の日本のレベルは、そんなものだろう。
まさに、日本はしらけきった国になりつつある。問題があっても、解決されないまま放置されているのだから、生徒と教師の前には、しらけしか残されていなくて当然だろう。
*1:英語という科目の場合、言語的に孤立している日本は、やはりフィールドがない。けれども、インターネットならフィールドがあるというのが私の問題意識のひとつである。しかし、電子立国といわれる日本にもかかわらず、教育現場でのIT化は、先進国の中でも遅れている方ではないか。作るのにうまくても、使いこなすのが下手な日本の状況がここにもあらわれている。
*2:英語が通じる言語環境が日本に少ないのと同様に、オーストラリアでも日本語が通じる言語環境は広くはない。クイーンズランド州で日本語がビジネスラングエッジとして有効であるというような程度だろう。それでも彼らの方がストレートな発想で外国語を学んでいる印象が強い。
*3:日本の高校では英語が必修という印象があったかもしれないが、外国語としては選択という位置づけの時期の方が長い。選択にもかかわらず、画一的日本では、ご承知のように英語を選択の余地なく「選択」することが主流で、新潟県の一部でロシア語などを選択していた高校があったというような話を聞いたことがあるくらいだ。オーラルコミュニケーション(OC)が導入された先の新学習指導要領のもとで、このOCが例外なく全国の高校生にとって必修となり、OCとしての英語がご承知のように現在必修になっている。