トップダウンの「教学改革」なるものは、教育破壊である

別府

 近代学校の基本的な構造は、父母が本来が持っている教育権を教師にゆだねて、教育の専門家である教師が、父母から与えられた教育権を行使するという構造だと、大学時代に学んだ。
 未来の主権者たる生徒には、もちろん基本的人権が擁護されないといけないが、その基本的人権の中心は、生存権に他ならない。
 この生存権には労働権や他の様々な権利も含まれるが、こうした権利を行使するには、子どもに学習権が保障されないといけない。子どもは、さまざまなことを学んで大人になり、権利主体になるからである。
 だから、学校というものは、生徒・父母、そして教職員の要求を土台として、学校づくりをしていくことが基本である。
 ところが、今の日本は、少子化による生徒急減期ということで、多くの私学は財政難を抱え、私学といえども、生き残りをかけて大変な状況だ。
 わたしが昨日から参加している研修の中でも、これまで営々とつくりあげてきた建学の精神も私学の伝統もけちらして、現場の声を聞かず、生き残りの名のもとにトップダウンの「教学改革」なるものが全国に押し寄せているようだ。
 生徒が少なくなるのだから、一人ひとりの子どもたちに豊かな教育を与えるチャンスでもあるのに、トップダウンの「教学改革」なるものが推し進めているものは、生徒集めの単なる「看板」や誇大「宣伝」だったり、教師集団破壊であったりする。
 東京のある私立伝統校では、数年前に学校長がかわったそうだが、その報告の一部として、教師集団の有志によるスポーツ大会や親睦会に対する管理職側からの弾圧やら嫌がらせを聞いた。教師集団が団結や連帯をせずして、一体どうして豊かな教育がおこなわれるだろうか。そもそも、スポーツ大会や親睦会を弾圧するなんて、時代錯誤も甚だしい。
 トップダウンの「教学改革」なるものは、教師集団破壊である。教師集団破壊は、教育破壊に他ならない。