数少ないスキーの思い出

ヘストラの手袋

 やりたいことがわからず特にやりたいこともないという話も聞くけれど、やりたいことがあってもやれないということもたくさんある。やりたいことがやれない理由として、その多くが時間管理と金銭管理上の問題から派生していることが少なくない。幸せな人生を送るには、時間管理と金銭管理が重要であると思うけれど、時間とお金は多ければ多いほどいいのだろうが、これも相対的なものだからバランスが重要だ。
 私の場合は、金銭貧乏はとうに諦めているけれど、時間くらいはなんとかならないのかという気持ちでずっと生きてきたが、その実、金も暇もない。教員という仕事は個人的な時間が自分の都合だけで取れないから本当に困る。
 さて、趣味的な話で恐縮だが、私の場合、やりたいのにやれなかったことの一つにスキーがある。
 子どものときは自分には海外旅行もスキーも生涯縁がなかろうという確信みたいなものがあって、小学生の時分は加山雄三若大将シリーズの映画の中で、疑似体験するくらいが関の山だった。海外旅行の方は、英語の教員になってからそれなりに行くようになったが、スキーの方は相変わらず縁遠かった。雪国生まれでも雪国育ちでもない私にとってスキーはとても贅沢なスポーツだった*1
 今となっては大昔の話なのだけれど、1981年8月からバークレーの英語集中講座に参加しながらサンフランシスコに半年体在したことが私にとっての初の海外体験だった。まさにこれが英語教師としての私の原点ともいえる体験となったのだが、翌年1982年は、3月までグレイハウンドバスでアメリカ合州国を単独旅行していた。そのバス旅行中、コロラド州のヴェイル(Vail)に近づいた際に、スキー客がどやどやとバスに乗り込んできた。生まれてこのかたスキーなどやったことのなかった私は、ロッキー山脈のヴェイルに温水プールがあるということだけで、それを温泉と決め、ヴェイルでバスを降りることにした。ゴンドラに乗ってゲレンデの頂上に着いてもそのままゴンドラに乗って帰ってこなければならないほどスキー未体験だった私が、旅先でたまたま知り合った早稲田大学の学生のすすめもあり、生まれて初めて少しだけスキーを習った。ビルという名のインストラクターからは、「車の運転と同じだから」というアドバイスをいただいたが、私が自動車免許を取得したのは日本に帰国してからのことで、そのときは自動車の免許も持っていなかった。これが生まれてはじめての私のスキー体験だった。その年だったか翌年だったか、ヴェイルで知り合った早大の学生と一緒に長野県は菅平にスキーをしに行ったが、このときのことはよく覚えていない。おそらくスキーも上達しなかったからだろう。
 その後は日本のスキーブームを横目で眺めながら、1990年代にはスキー関連の本を購入して眺めるようにはなったが、教師としての仕事が忙しくスキー旅行など行けるはずもなかった。
 たしか1995年の暮れだったか、アメフトのクリスマスボウルが東京ドームでおこなわれ、その観戦後、猫魔に行ったのが初めての家族スキーだった。当然ウエアもレンタルするほどのスキー級外者であったが、しんしんと雪が降る中をリフトに乗っているだけで感動し、至福のときを過ごすことができた。ゲレンデスキーであっても、私にとって、スキーは自然の中の遊びであったからだ。
 続けて1996年3月に家族で北海道はトマムに行く予定を立てたが、私だけ急遽学校の仕事で行けずじまいで、その年の12月だったか、安比高原へ家族スキー旅行で出かけたのが最後となった。だから私は、スキーには4回くらい数えるほどしか行ったことがない。
 山スキーをやる方にとっては当たり前の話なのだろうが、もともとゲレンデスキーより山スキーに興味があった私は、1997年頃に「ネイチャースキー」についての新聞紹介記事が眼にとまるようになり、橋谷晃氏の「ネイチャースキー」という本を読み、雪の森のハイキング、テレマークスキーに興味をもって、子どもと一緒に始めようと思ったことがあったのだが、これまた時間的余裕がなく開始できなかった。
 2004年にアオテアロアニュージーランドに滞在したときには、ファカパパのシャトーに泊まってスキーでもやろうかと思ったが、そのときも他のことに忙しく、結局できなかった。要するに、スキーのフィールドは、私にとって相変わらず遠いままだったのだ。直接的には仕事の関係でということもあるが、再びスキーを始めたいと思うようになったのは、やりたくてもやれなかったこうした渇望体験が背景にあるからに違いない。

*1:ただし田舎は雪国だった。