朝日新聞の広告欄に「仕事力」というコラムがあって、いろいろな仕事人の考え方を知ることができて、結構面白い。
今回は、鴻上尚司さん。お名前こそ存じ上げているが、作家・演出家の鴻上さんとしての仕事は全く知らない。けれど、今回も、書かれている内容は面白く読んだ。
まず、マニュアルの話。
携帯電話店での鴻上さんの経験で、「目の前の担当者は僕と話をしている最中でも、他の誰かが『ありがとうございました!』と声に出した瞬間に、何をおいても『ありがとうございました!』とその度に叫ぶ」という。あるいはコンビニエンスストアで、「自分が床掃除をしていようが本の整理をしていようが、誰かが『いらっしゃいませ、こんにちは』と言った途端に、お客さんを見もせず同じように声を張り上げる」という。鴻上さんからすれば、これは「人間の生理に反しているし、必然的にそれは独り言になっている」と述べ、次のように続ける。
マニュアル対応は、入店してくる人がおなじみさんかどうかなど、心を配るジャッジを一切無効にして構わない、ある意味ではとても機械的でラクな接客法です。
企業が「人の自然な言葉や感覚を奪って」いる状況の中で、それに痛みを感じるか、あるいは、やれと言われたコミュニケーションなんだからと割り切るか。仕事をしていると、他にも様々な迷いや葛藤があるし、きっと一人ひとりの判断は違うと思いますが、何よりも大切なのは、自分はどう感じているかを手探りすることでしょう」と、鴻上さんは述べている。
タイトルは「マニュアルが奪うもの」とあるが、多分、彼の言いたいことは、マニュアルのことよりも、「あなたの幸せを人は決められない」「俺は一体、私は一体何を幸せと考えるんだろう」ということを、自分の頭で考えろということだと思う。
「自分の気持ちがよくわからない、仕事も何がやりたいのか見えてこないなら、小さな問いかけを自分にしていくことです」と、鴻上さんは言う。また、「時間が来たら食事しているだけだと、自分がどうしても食べたいものなど分からないのが普通」だが、3日も食べず、本当に腹が減れば、これが好きなんだと言えるでしょうと言っている。「離れて、飢えの状態で『どうなんだ、俺』と感じ」ることが大切だというのが鴻上さんの言いたいことなのだろう。
あと面白かったのは、「どちらが自分にとってベターか、ということではなく、どっちが『悪くはないな』と思えるか」という発想法だ。
「一日友達と話した日」と「一日テレビを見続けていた日」。「図書館から借りてきた推理小説を一日読みふけった日」と「録画したバラエティー番組を8時間見続けた日」とでは、どちらが「悪くはない」時間と感じたかということを、自分で考えろと。
betterかworseか。これはちょっとした違いだけれど、結構大きな違いかもしれない。それは、理屈としては、よりよいものの存在する可能性は無限に広がっており、漠然としてしまうけれど、「どっちが『悪くはないな』と思えるか」という発想を使うと、なんとなく限定されて、決められる気がするからだ。
鴻上さんのコラムから離れる。
冒頭のマニュアルの接客の挨拶の話だが、これは、私の狭い短期間の経験からの観察に過ぎないが、たとえばアオテアロア・ニュージーランドやアイルランドなどでは、稀有の現象だろう。当然のことながら、私などはすでに日本の環境に順応しているから、それほど違和感がなくなっているが、海外滞在の長い人の違和感は相当なものだろう。
また、自分の頭で考えるということも、海外の常識からみて、当然のことではないだろうか。そうであれば、日本的環境では自分の頭で考えるということが奪われている。そうした自覚をもつことのほうが大切なのだろう。
これは、30年以上も前のアメリカ合州国での私の観察だが、長距離バスの切符を買おうと列に並んでいるとき、眼の前の日本人大学生二人のうちの一人が、係のアメリカ人に、英語で尋ねたら、係員の返答がわからなかったようだったが、わからなかったことを相手に返すのではなく、横にいた大学生の一人に「おい、いま何て言ったんだ」と、二人で顔を見合わせていた。そのときの、その係員のアメリカ人の困った顔つきが忘れられない。これは英語の上手下手の問題ではなく、いかにそれが、人間として失礼で、困惑することになってしまうか、その日本人大学生たちはわからなかったのだ。
マニュアルの話に戻れば、マニュアル化できない、「言葉にうまくあらわせない現場経験から得られる」『暗黙知』というものがあるという。
団塊の世代が次々に現場から去っていく状況のもと、日本がもっていたこうした「暗黙知」の喪失は、相当なものになるのではないか。そう危惧する声は以前からあった。自主的・自律的な思考と、総体の人間力を向上させる重要性と、教育の重要性は指摘するまでもない。
問題は、マニュアル的な応答がきちんとした仕事としてどう評価されるべきかという疑問と同じように、教育も、安直に考えてもらっては困るということである。