「渡辺一夫評論選 狂気について」

amamu2012-10-31

 ヒューマニズムとは何か、考え始める材料として、渡辺一夫さんの「ヒューマニズム考―人間であること (1973年) (講談社現代新書)」を読んだら、これがとても面白かった。このことはすでに書いた。
 フランス文学やルネッサンスについては、教養として読んでもよいかもしれないけれど自分とは関係ないものと思っていた。とりわけ時間貧乏の私には、残念ながら教養を学ぶ余裕もない。
 ところが、ユマニスムとは、「別に体系をもった思想というようなぎょうぎょうしいものではけっしてなく、ごく平凡な人間らしい心がまえであるというのがわたしの考えです」(「ヒューマニズム考」)という渡辺一夫さんの思想に触れ、これが身近なものになったのだから、渡辺さんの力はすごい。
 渡辺一夫さんの力量といえるのだが、前書を読んで、エラスムスも、モンテーニュも、「痴愚」も「狂気」も「異端」も、突然わたしにとって大変身近なものとなったのだ。
 それで、まだ読んでいないが、エラスムスの「痴愚神礼讃 (中公クラシックス)」も買った。
 「狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)」も、以前注文したのだが、公私ともに多忙で読む時間がなく、仕方なく積んでおいたものなのだが、それでも「狂気について」「「文法学者も戦争を呪詛し得ることについて」「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」「不幸について」など、少しずつ拾いながら読み始めている。
 今日は、「買書地獄」「本を読みながら」を読んで、こうした軽いものも面白いが、途中ながらこれまでのところ大変感銘を受けたのは、なんといっても、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」である。
 渡辺一夫さんの結論は、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきでない」というもので、私はとても勇気づけられた。
 以下、この箇所を引用する。

 過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容に対して不寛容になってよいというはずはない。割り切れない、有限な人間として、切羽つまった場合に際し、いかなる寛容人といえども不寛容に対して不寛容にならざるを得ぬようなことがあるであろう。これは、認める。しかし、このような場合は、実に情ない悲しい結末であって、これを原則として是認肯定する気持ちは僕にないのである。その上、不寛容に報いるに不寛容を以てした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱して、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深い褶(ひだ)を残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は、考えまいとしても考えざるを得ない。従って、僕の結論は、極めて簡単である。寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきでない、と。


 渡辺一夫さんは、「寛容な人々の増加は、必ず不寛容の暴力の発作を薄め且つ和らげるに違いない」と考えている。また、「不寛容によって寛容を守ろうとする態度は、むしろ相手の不寛容を更にけわしくするだけである」とも考えている。

 ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐をも感じさせる場合も多いということである。あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように。
 だがしかし、僕は、人間の想像力と利害打算とを信ずる。人間が想像力を増し、更に高度な利害打算に長ずるようになれば、否応なしに、寛容のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。


 「争うべからざることのために争ったということを後になって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない」と、渡辺一夫さんは言う。
 そう。「後の祭り」、英語でいえば"The damage is done."と言うではないか。
 渡辺さんは明確に書いてはおられないが、この思想は、平和憲法にもつながる思想であるように、私には思える。
 この、1951年に書かれた「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という文章を、私は今後繰り返して、読みたいと思う。いや、読まねばならぬと思う。