以下、朝日新聞デジタル版(2017年10月20日05時00分)から。
ふたつの意見として掲載されていたが、もうひとつの井上達夫さんの意見は略させていただいた。
「寛容な改革保守」を掲げる希望の党と、民進党のリベラル系とされる勢力が結集した立憲民主党が、安倍政権に挑む衆院選。対立軸として語られてきた保守とリベラルが、ねじれて分かりにくくなってきているようにも見える。日本における保守とは、リベラルとは。
「リベラル」って何?
■対米自立か従属か、真の焦点 加藤典洋さん(文芸評論家)
「保守」という考え方は、フランス革命への反動から出てきたもので、理性によって急進的に社会を変革することへの懐疑や、慣習と制度化による漸進的な変化の重要性を説く政治思想でした。
大切なのは、そこに、社会全体に共通の目標が前提とされていることです。つまり、保守と革新はその目標に近づく方法をめぐる手法の対立でした。
その意味では、安倍政権はもはや保守ではありません。
戦後の第一の目標として従来の保守政治が堅持してきた国の独立という大前提、つまり対米自立の目標を、自分の政権維持のため事実上放棄しているからです。
戦後保守政治は、敗戦、占領を経て、独立をどうやって確保するかという問題と常に向き合ってきました。そして、保守本流と言われる、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作首相の時代の戦略は、不平等な地位協定を含む日米安保条約の制約のもと、できる限りの自立をめざしつつ、もっぱら経済的繁栄によって国民の自尊心を満足させる「親米・軽武装・経済ナショナリズム」路線でした。
その後も、米国の要求を最小限に受け入れる妥協をしながらも、したたかに独自の外交や政治決定権を回復して日本の国益を追求するという政治目標が、保守政権の中では共有されてきました。
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ところが、少なくとも第2次安倍政権以降は、これまで堅持されてきた、そうした国益保全のための対米自立に向けた努力が全く見られません。沖縄の普天間飛行場の辺野古移設での米国べったりの姿勢、県民への非情さもそうですが、自衛隊員の使命感と安全を考えたら、米軍に指揮権を委ねたままでの集団的自衛権の行使容認は無責任で、国益に反します。また、米国を忖度(そんたく)し、国連の核兵器禁止条約に参加しなかったのも、原爆の犠牲者の尊厳を守るという国の義務の放棄でした。
安倍政権が掲げる憲法9条に自衛隊を明記する改正も、「自主憲法制定」という言葉によって、あたかも対米自立をめざしているかのように装っていますが、その実態は対米軍事協力のための改正でしかありません。
なぜ、安倍政権がこれだけ長く続いているのかと考えると、歴史的な視点が欠かせません。というのは、近代日本では「国難」を機に排外思想の高まりが80年周期で繰り返されているからです。最初はペリー来航を契機に盛り上がった1850年代の尊皇攘夷(じょうい)思想。次が1930年代の皇国思想の席巻。そして2010年代の嫌中嫌韓のヘイトスピーチ。安倍政権がこの近年の排外的な空気に乗っていることは否定できません。
特に1930年代に皇国思想が噴出してきた時、なぜ、大正デモクラシーに育まれた政党やメディア、文化がこれに対抗できなかったか。現在と重なるその理由を、今こそ改めて考究すべきです。
治安維持法の適用範囲拡大の歴史は、その点で示唆的です。同法の取り締まり対象は当初、共産主義でしたが、それが、社会主義、最終的には自由主義(リベラリズム)へと広がっていきました。
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今回の選挙で立憲民主党の枝野幸男代表は、当初「私はリベラルであり、保守です」と言っていましたが、その後の毎日新聞のインタビューでは、「保守と対立するのがリベラルと位置付けるなら、我々はリベラルではない」と発言しています。しかしここは踏ん張らないといけない。社会の空気がなんとなく、「リベラル」に対して否定的になってきたからといって、「リベラル」の旗を掲げる党がなくなってしまえば、80年前の繰り返しになってしまいます。
今回の選挙で気づかなければならないのは、本当の選択肢が、保守かリベラルかではなく、対米従属による国益追求か、対米自立による国益追求か、の間にあるということです。
(聞き手・山口栄二)
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かとうのりひろ 1948年生まれ。早稲田大学名誉教授。著書に「アメリカの影」「敗戦後論」「戦後入門」。近著に「もうすぐやってくる尊皇攘夷(じょうい)思想のために」。