渡辺一夫さんの「狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)」は評論選集なので、順番は好き勝手にさせてもらって、読んでいる。
タイトルにもつけられた「狂気について」というエッセイでは、人間というものは、「天使になろうとして豚になる」存在であると、渡辺さんは言っている。「天使になろうとして豚になる」という箇所には、引用符がつけられているが、これはどこかからの引用なのだろうか*1。豚は、清潔好きな動物として知られるが、英語でも「警察」を意味する蔑称・俗語として使われたり、ずいぶんと名誉を傷つけられるメタファーとして用いられることが多い。
それはそうとして、渡辺さんの言いたいことは、「ノーマルな人間とアブノーマルな人間との差別はむずかしい」ということであり、「天使になろうとして豚になりかねない」存在であることを悟り、そのことを心得よということにあるのだろう。
以下、「狂気について」から引用する。
人間というものは、「狂気」なしにはいられぬものでもあるらしいのです。我々の心のなか、体のなかにある様々な傾向のものが、常にうようよ動いていて、我々が何か行動を起す場合には、そのうようよ動いているものが、あたかも磁気にかかった鉄粉のように一定の方向を向きます。そして、その方向へ進むのに一番適した傾向を持ったものが、むくむくと頭をもたげて、まとまった大きな力のものになるのです。そのまま進み続けますと、段々と人間は興奮してゆき、遂には、精神も肉体もある歪み方を示すようになります。その時「狂気」が現れてくるのです。
「人間というものは」というと、落語の名人・古今亭志ん生の枕のようだが、人間という存在を、丸ごと総合的にとらえよということなのだろう。
以下の認識も大変教えられるところが多い。
そして、人間は、このうようよした様々なものが静かにしている状態を、平和とか安静とか正気とか呼んで、一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し長く続きますと、これにあきて憂鬱になったり倦怠を催したりします。そして、再び次の「狂気」を求めるようになるものらしいのです。この勝手な営みが、恐らく人間の生活の実態かもしれません。
渡辺さんの言いたいことは、「誰しもが持っている『狂気』を常に監視して生きねばならぬ」ということなのだろう。
渡辺さんは、「『狂気』を唯一の倫理にせよ」ということを言っているのでは全くない。それは、このエッセイの最後の箇所を読めば明らかである。
「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々もおられます。私は、そうは思いません。「狂気」によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲とを伴います。真に偉大な事業は、「狂気」に捕えられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものです。やかましく言われるヒューマニズムというものの心核には、こうした自覚があるはずだと申したいのであります。容易に陥りやすい「狂気」を避けねばなりませんし、他人を「狂気」に導くようなことも避けねばなりませぬ。平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう。冷静と反省とが、行動の準則とならねばならぬわけです。そして、冷静と反省とは、非行動と同一ではありませぬ。最も人間的な行動の動因となるべきものです。ただし、錯誤せぬとは限りません。しかし、常に「病患」を己の自然の姿と考えて、進むべきでしょう。
1948年に書かれた「狂気について」も、我々が何度も読まなければならない一遍である。