猪瀬知事、発言を撤回・謝罪

amamu2013-05-01

 昨日このブログで紹介した猪瀬東京都知事のオリンピック招致をめぐっての発言だが、29日の段階で、「私の真意が正しく伝わっていない」「インタビューの文脈と異なる記事が出たことは非常に残念」と猪瀬知事は”反論”されていたが、「一夜明けると一転して謝罪」となった。その意味で、猪瀬知事の「発言」は「失言」であったことになる。
 ニューヨークタイムズ紙が記事で引用した言葉は猪瀬知事が用意した通訳者が話した内容でありそれが録音もされているということから、ニューヨークタイムズ紙は「記事に自信がある」と表明していた。
 猪瀬知事は「不適切な部分は認め、これでおしまいにしたい」と発言されているが、発言内容には、昨日このブログで紹介した以外に、「トルコの人も長生きしたいでしょう。長生きしたければ日本のような文化をつくるべきだ。若い人は多いかもしれないが、早く死んでしまうようでは意味がない」という内容も含まれていたとのことだ。
 4月30日の猪瀬知事のANNニュースの説明会見を見たが、今回の件によって、自分のところのPRをする場合、気を使わないといけない。どのあたりがガイドラインに触れてしまうのかよくわかりましたので、他都市に敬意を払いながら今後は招致活動をやっていきたい。よい経験をさせていただいたというような発言をされていた。
 猪瀬知事は、「自分のところがすごいんだすごいんだと言うときに、少しでも他の都市に触れないようにしながら、すごいぞすごいぞと言わなければいけないなということがよくわかりました」と会見で釈明されていたが、私は、何が「不適切」であったのか、猪瀬知事ははたして理解されているのか疑問をもった。
 たとえば、「私たち日本人は勤勉です」と言いたい場合、「私たち日本人は」と「限定」してしまえば、「私たち日本人以外」は怠けものだということを、話者の意図とは関係なく、意味してしまうことになる。"We Japanese are diligent, hard-working people..."と言えば、当然相手を怒らせることになってしまう。こうした場合、「限定」を解除しなければならない。たとえば、"We Japanese are diligent, hard-working people, which does not necessarily mean that you are lazy." つまり、「だからといって、それはあなたたちが怠け者であるということではありません」と、「限定」を解除するために、つけ足さないといけない。単なるレトリックといえば、その程度のことだが、ある意味、これは「常識」であろう。つまり、人格として、尊大であってはいけない、傲慢であってはいけないというのが私の本意だが、百歩譲って、たとえ尊大で傲慢な人間であったとしても、建前としてこれくらい言えなければならないというのが今日的「常識」なのである。
 また、これも言うまでもないことだが、事実(fact)にもとづかない意見(opinion)は、偏見(prejudice, stereotype)、妄言(thoughtless words, reckless remarks)となってしまう。
 
 イスラムのことについて私は浅学でよくわからないのだが、朝日新聞は以下、東京外国語大学の飯塚正人教授のコメントを載せている。

 イスラムの国はけんかばかりというのは、事実ではない。トルコはどことけんかしているのというのか。発言の背景に「イスラム=テロ、暴力」という偏見があると、イスラム圏の多くの人が感じるだろう。

 たとえば、「あなたは黒人だから歌やダンスが上手でしょう」「あなたは黒人だから足が速いでしょう」というのも、偏見(ステレオタイプ)となる。
 政治に携わる人はもちろんのこと、私たちは、もっと政治的に公平で公正な、差別や偏見を排除した言動に努めなければならない。私たちはもっとPC(political correctness)を学ばないといけない。
 「トルコのメディアは、ニューヨーク・タイムズ紙を引用して発言を短く報じた程度で、発言の是非までは論評していない」ということだが、猪瀬知事の関心事がオリンピック招致にあることはそうなのだろうが、ことはオリンピックではないように私は思う。また「猪瀬知事の発言が、東京招致に影響があるかどうかは見方が割れる」ようだが、ことは「影響があるかどうか」でもないだろう。大切なことは、猪瀬知事の発言内容を私たちが自主的に判断できる能力があるか否かではないか。また、結果的に影響がなかったとしたら、それは相手が寛容の精神で我慢しているということに気づかなければならないのではないだろうか。
 そもそもオリンピックとは何のためにあるのだろうか。