中島京子さんの「「戦前」という時代」を読んだ

amamu2014-08-09

 昨日の朝日新聞の朝刊で、中島京子さんの「「戦前」という時代」という「寄稿」を読んだ。
 文学というものをほとんど読む時間のない自分にとって、作家の書かれたものをほとんど読んだことがない。山田洋次監督の「小さいおうち」という映画は観たけれど、原作を書かれたのが中島京子という人だということに気づくにも時間がかかるくらい、それほど私は小説や文学を読むことがない。
 朝日新聞の「「戦前」という時代」という中島京子さんの「寄稿」をたまたま読んだのだが、とてもいい文章であると思った。
 その文章は冒頭で徳永直の「追憶」という随筆にふれ、その随筆が1946年の11月号の文藝春秋に掲載されたものであるにもかかわらず、すなわち「敗戦直後に書かれたにも拘わらず、なんと、関東大震災時の朝鮮人虐殺を書いたものだった」という書き出しで始まる。
 

 私が随筆「追憶」を見つけて間もないころに、「特定秘密保護法案」に対するパブリックコメント募集がひっそりと行われ、あっという間に締め切られた。それでも9万件ものコメントが寄せられ、その8割近くが法案に否定的だったにもかかわらず、問題の多いこの法案は、年末に強行採決され、国会を通過した。
 あれ以来、日本史年表を見るとどうしても、「関東大震災」と「東日本大震災」を、「治安維持法」と「特定秘密保護法」を引き比べてしまう。いま昭和史で言うと、どのへんにいるのかと、つい考えてしまう。


 中島京子さんは「明るくて文化的な時代と、暗くて恐ろしい残酷な時代がどう共存していたのか、あるいはどこで反転したのか、知りたい」と思い、昭和10年ころの時代は「どういう時代だったのか、なぜ戦争に向かったのか、知りたい」と思って、代表作である「小さいおうち」という小説を書いたという。








 その方法論は、「のちになって書かれたもの」ではなく、当時書かれたものを読むということである。

 私は当時書かれた小説、映画、雑誌、新聞、当時の人びとの日記などを読んだ。のちになって書かれたものは、戦後的な価値観が入っているので、できるだけ、当時の考え方、当時の価値観がわかるものを調べた。


 「すると、だんだんわかってきた」ことがあるという。
 それは何か。

 

そこには、恋愛も、親子の情も、友情も美しい風景も音楽も美術も文学も、すべてのものがあった。いまを生きる私たちによく似た人たちが、毎日を丁寧に生きる暮らしがあった。私は当時の人びとに強い共感を覚えた。
 けれども一方で、そこからは、人々の無知と無関心、批判力のなさ、一方的な宣伝に簡単に騙されてしまう主体性のなさも、浮び上がってきた。当時の人々に共感を覚えただけに、この事実はショックだった。豊かな都市文化を享受する人たちにとって、戦争は遠い何処かで行われている他人事のようだった。少なくとも、始まった当初は。


 この「寄稿」のサブタイトルに「毒に体を慣らすように受け入れた「非常時」 あのころと似た空気」とある。

 「盧溝橋で戦火が上がり日中戦争が始まると、東京は好景気」に沸いたという。「都心ではデパートが連日の大賑わい。調子に乗って、外地の兵士に送るための「慰問袋」を売ったりする。おしゃれな奥様たちは、「じゃ、3円のを送っといて頂戴」なんて、デパートから戦地へ「直送」してもらっていたようだ。これは前線の兵士たちには不評で、せめて詰め直して自分で送るくらいのデリカシーがないものか、と思っていたらしい」。


 これはきわめて教訓的な話ではないか。


 もうひとつのサブタイトルの「目を向けよう 私たちは変えられる」の内容におそらく触れて、最後に、戦前の「一億総ざんげ」という言葉やアリス・ウォーカーの「人々が自分たちの力を諦めてしまうもっともよくある例は、力なんか持っていないと思い込むこと」と憲法を引用しながら書かれている。
 是非一読したい寄稿である。