「(論壇時評)ことばを贈る 根本から考えるために 作家・高橋源一郎」

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 以下、朝日新聞(デジタル版2015年4月30日05時00分)から。

 東日本大震災からまだ1週間しかたっていなかった2011年3月19日、わたしが勤めていた大学の卒業式が中止になった。理由は、「安全確保」のためとされた。それでも卒業式をやりたいという学生からメールをもらい、わたしは工事が終わったばかりの食堂での「自主卒業式」に参加した。そこには数名の教員も参加した。風邪で声がほとんど出なかったわたしは、前夜用意した「祝辞」は読まず、渡されたハンドマイクで短い挨拶(あいさつ)を贈った。

 「卒業式が中止になったのは、大学が社会の『空気』に負け、華美な行事を自粛したからです。そのことを、大学の一員として、あなたたちに謝罪します。最後にあなたたちは大学の真の姿を知ることになりました。それこそが、最良の教育だったかもしれません。4年間、ご苦労さま。そして、ありがとう」

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 その場で読むはずだった「祝辞」を、2日後、わたしはツイッター上に公開した〈1〉。その1カ月後、わたしは、この論壇時評を始めることになったが、ほんとうは、その「祝辞」から、わたしの「時評」は始まっていたように思う。

 毎年、この時期になると、主として大学の「式辞」や「祝辞」が話題になる。それは、「社会」を目前にした学生たちに、その「社会」にどう接してゆくかを、「論」よりも説得力のあることばで語る必要のある機会だからだ。

 卒業にあたって、立教大学の総長は「大学は『物事を根源にまで遡(さかのぼ)って考える』場所で」あり、「もしもそのような場所が、社会の至る所にあるのであれば、大学は不要でしょう」「あるいは逆に、社会がもはや考えることを全く必要としないのであれば、大学は存在意味を失うことになります」とした〈2〉。

 それは、いま、大学を体のいい「職業訓練所」としか考えなくなりつつある社会への反「論」でもあったろう。

 あるいは、2年も前の東京造形大学の入学式祝辞〈3〉が話題になったのも、いまこそ読むべきなにかがある、と感じる人が多いからだろう。その祝辞で、当時の学長・諏訪敦彦は、学生時代の自分の経験を語ることから始めた。

 映画作りを目指し入学した諏訪にとって、授業で作る映画は「厳しい現実社会の批評に曝(さら)されることもない、何か生温(なまぬる)い遊戯のように思えた」。やがて、休学し、多くの現場で助監督をするようになった諏訪は、たまたま大学に戻り、自信をもって映画を作った。だが、諏訪の映画は酷(ひど)いものだった。同級生たちの映画は、技術では諏訪より遥(はる)かに劣ったが、「現場という現実の社会の常識にとらわれることのない、自由な発想に溢(あふ)れて」いた。諏訪は、自分が「『経験』という牢屋」に閉じこめられていたことを知った。それは、小さな「現場の常識」の中でだけ通用する能力にすぎなかった。最後に、諏訪は、大震災と原発事故によって「これまでの社会において当然とされてきた作法を根本から見直さなくてはならない」として、こう語りかける。

 「現実社会は、短期的な成果を上げることに追いかけられ、激しく変化する経済活動の嵐の中で、目の前のことしか見えません。これまでの経験が通用しなくなっている今ほど、大学における自由な探究が重要な意味を持っている時はないと思います」

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 琉球新報に、翁長雄志沖縄県知事官房長官との対談の発言全文が載った〈4〉。そこで知事はこういっている。

 「一昨年、サンフランシスコ講和条約の発効の時にお祝いの式典があった。日本の独立を祝うんだという、若者に夢と希望を与えるんだという話があったが、沖縄にとっては、あれは日本と切り離された悲しい日だ。そういった思いがある中、あの万歳三唱を聞くと、沖縄に対する思いはないのではないかと率直に思う」

 ひとりの知事が、国の代表者に、その地の過酷な歴史を語り、感慨を述べ、「民主主義国家としての成熟度」について懸念を表明する。ここで翁長によっていわれたことばの一つ一つが「民主主義」について、深く掘り下げられた「論」であるようにわたしには思えた。

 西田亮介〈5〉は、今回の統一地方選が、無風どころか「無音」だったことで「主権者教育や市民制教育」が改めて注目されているが、そもそも、「政治を理解し、判断するための総合的な『道具立て』」がないのではないか、と書いた。その上で、戦後すぐ当時の文部省が用いた『民主主義』という(中学・高校)教科書〈6〉に触れ、この膨大で、熱気に溢(あふ)れた教科書のようなものこそ必要ではないか、としている。

 西田に触発され、わたしは、『民主主義』を読み、圧倒された。これは、教科書以上のものであり、また「論」以上のものであるように感じたからだ。

 「民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にある。すべての人間を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である」(はしがき)

 その「根本精神」から始まり、およそ社会と歴史のすべてを、その精神から考えようとした労作の書き手を、効率を最優先と考えるいまの社会は、もしかしたら、「危険思想」の持ち主と見なすかもしれない。

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〈1〉「震災で卒業式をできなかった学生への祝辞」(2011年3月、togetterまとめ、http://togetter.com/li/114133別ウインドウで開きます)

〈2〉吉岡知哉・立教大総長「卒業生の皆さんへ」(3月、https://www.rikkyo.ac.jp/aboutus/philosophy/president/conferment2014/別ウインドウで開きます)

〈3〉諏訪敦彦東京造形大学長(当時)の入学式での式辞(13年、http://www.zokei.ac.jp/news/2013/001-1.html別ウインドウで開きます)

〈4〉官房長官との会談に際しての翁長雄志沖縄県知事の冒頭発言全文(琉球新報サイト、http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-241475-storytopic-3.html別ウインドウで開きます)

〈5〉西田亮介「『無音』の統一地方選」(政治メディア「ポリタス」、http://politas.jp/features/5/article/369別ウインドウで開きます)

〈6〉『文部省著作教科書 民主主義』(1995年刊の単行本から、原本は48〜49年に刊行)

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 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。近刊に小説『動物記』、評論『デビュー作を書くための超「小説」教室』がある。