以下、朝日新聞デジタル版(2020/3/24 5:00)から。
■脆弱な危機管理、さらけ出した安倍政権
新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)が、深刻度を増している。いまだ治療薬が完成していない中、恐るるに足りぬという声から、終息に1年は要するという予測まで何一つ確かな事実は存在しない。
この影響で株価は暴落し、円高基調になり、世界恐慌が起きても驚かないところまで、我々は追い詰められている。
国民生活には抑圧と不安が広がり、文明社会が溶融するのを誰も止められずにいる。
厚生労働省や日本環境感染学会の資料などを基に、朝日新聞が別刷り紙として12日に発行した「知る新型コロナ」によると、新型コロナウイルスは、重症急性呼吸器症候群(SARS)に比べれば、感染した人の健康を害する能力は低いらしい。また、世界保健機関(WHO)の発表によると、全年齢平均の致死率は3・4%だ。
中国の約5万5千人の患者のうち、重症化した人は約14%に過ぎず、その約半数は回復したという。
これらが事実だとしたら、世界中が震撼(しんかん)するほどの危険なウイルスには思えない。
にもかかわらず、世界はパニックに近い状態になっているのには理由がある。新型コロナウイルスには厄介な特徴があるのだ。
たとえ感染しても発症しない人が多い一方で、未発症者も感染源になりうる。これらの人々が自覚なく日常生活を続けてしまうだけで、感染が広がるのだ。
その結果、街を歩くだけで突然発症するという不気味さが、多くの人に恐怖を植え付けた。
その上、現状では特効薬がないため、各人の体力と免疫力、対症療法で治す以外に、方法がないときている。そして地球規模の大感染となり、WHOが「パンデミック=世界的大流行」と認定せざるを得なくなった。
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新型コロナ禍が、今後どのような展開を見せるのかは、もはや神のみぞ知る。
そして、我が国はこの騒動によって重大な弱点をさらけ出してしまった。
それは、危機管理に対する現政権の脆弱(ぜいじゃく)性だ。
報道によると、中国の武漢市で新型コロナとみられるウイルス出現が確認されたのは、昨年12月だという。そして、大みそかには、武漢市政府が27人の「原因不明の肺炎患者がいる」と公表した。
こうした事実は、日本政府に伝えられなかったのだろうか。
隣国で異変が起きたことを、日本政府が的確に察知する仕組みを持たないのは、あまりにも無防備としか言いようがない。当時、武漢市には約700人の日本人がいた。中には異変を感じていた人もいたようだが、それを気兼ねなく日本政府に伝える仕組みもなかったようだ。
1月9日、中国政府は新型コロナウイルスの存在を発表する。次いで16日に、日本国内で初の発症者が出たことを、日本政府が発表。
この段階が一つのターニングポイントだった。一体、中国で何が起きているのか。それは日本に影響がないのか。対策はどうするのか。
日本政府が動きを見せたのは24日で、武漢市の封鎖を受けて、湖北省への渡航中止の勧告だった。
優先するべきは、大型連休が始まった中国からの渡航者を阻止することではなかったか。にもかかわらず、最初に取ったのは「武漢に行かないほうがいいよ」という勧告だった。あまりにも危機感が欠如していたとしか言いようがない。
20日に開会した国会では連日、安倍晋三首相主催の「桜を見る会」や統合型リゾート(IR)を巡る汚職事件の疑惑追及が行われ、新型コロナの問題は、ほとんど言及されていなかった。
政権も野党も含めた国会議員が、国家の危機とは何かを理解していなかったと思えてならない。
危機管理というと、テロ対策や軍事的安全保障にばかり目がいく。だが、大災害や食糧危機、あるいはオイルショックのような事態も含まれる。
さまざまな危機への対策を国家レベルで用意することは、国民の命を守る国家の義務だ。
東日本大震災での原発事故発生時に事故対応マニュアルが機能せず、事故をより甚大に広げた痛恨の経験をしたからこそ、あらゆる危機に備えたマニュアルと覚悟を持って当然のはずではないか。
にもかかわらず、日本は指をくわえて国内への蔓延を許してしまった。もっとも、世界規模で見れば日本が突出して、対策がまずかったわけではないという意見もあろう。しかし、甚大な災害を経験した国家ならではの沈着冷静な危機管理を示して欲しかった。
■命守る究極の選択と説明を
そもそも、今回のウイルス騒動は、降って湧いた想定外の出来事と言えるのだろうか。
過去に、SARSやMERS(中東呼吸器症候群)、さらには新型インフルエンザなど、日本だけでなく中国や韓国などアジア諸国で深刻な感染をもたらした疫病騒動があった。いずれも21世紀に入ってからの出来事だ。にもかかわらず、禍が過ぎるとホッとしてやり過ごしてしまったのではないだろうか。
私が問題にしたいのは、安倍政権の失政をあげつらうことではない。
二度とこんな失敗を繰り返さないため、今回の騒動を教訓とし、中国での発症からいずれくる終息までをつぶさに記録し、その対策を徹底的に練り、次なる危機に備えて欲しいという訴えだ。
これは政権や政府だけの問題ではない。メディアもまた、対策の迷走ぶりを非難するだけではなく、次に備えるための取材活動に取り組んで欲しい。
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私は以前から日本では、国家の意味が正しく理解できていないのではないかと懸念していた。そして、今、それは現実に起きてしまった。
国家とは、国民が安心して暮らすために、ベストを尽くす機構だ。時には多くの国民を救うための究極の選択も必要になる。
中国人渡航者を拒絶すれば、外交問題になるかもしれない。しかしそれをおそれず、日本人の命を救うために、時には外交面でひんしゅくを買うことも必要なのだ。
その決断をするのは大統領や首相という政治の責任者の責務だ。
一部では、国民の自主性を重んじて、皆が感染防止に努めれば、必ず終息するという考えもある。それを日本方式だという人もいる。
だが、東日本大震災に襲われた被災地で、救急医療について、トリアージを徹底しようという動きがあった。トリアージとは災害や事故で発生した多くの負傷者を治療する時、治療者に優先順位を付けることだ。
コロナウイルスがさらに猛威を振るったり、突然変異して致死率を上げたりする可能性もゼロではない。
その時、本格的なトリアージを決断する覚悟が問われるだろう。
発端となった中国の武漢市では、既にピークアウトしたと言われている。特効薬が開発されたのではない。共産主義国家ならではの強権力にものを言わせて、市民の行動を徹底的に制限して、非感染者を含めた武漢市民を封じ込めたからに他ならない。
そのような独裁は、民主主義国家では無理だ、という人が多いだろう。しかし欧米では、非常に厳しい禁止令を発令した国もある。日本との大きな違いは「要請」ではなく「命令」であるという点だ。
私は、欧米と日本との間には、国家観の違いがあるように思う。一部の人権を制限しても、多くを救えるのであれば、強権発動はやむなしという発想は、共産国家でなくても持っているはずだ。それは言い換えれば、国民を守るという意味になるからだ。
むしろ、それを強行していれば最悪の事態を封じ込められたのに、それを怠った政府は、国民から信用を失う。
究極の決断をするために、首相がいて、官邸を中心とした政府がある。命を脅かされる危険のない時に、ささやかな政策を断行するために、首相がいるのではない。
危機に追い詰められた時に、命がけで非情な決断をするからこそ、首相には、多くの権限が与えられている。
それが危機管理ではないだろうか。
何を犠牲にして、何を守るのか。
3月23日に、東京五輪延期の可能性に言及した安倍首相だが、16日のG7の首脳テレビ会議では、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝つ証しとして完全な形で実現することで支持を得た」と五輪開催にこだわっていた。
コロナ騒動の中で、首相が決断するのは、東京五輪を行うかどうかではない。国民の命と日本という国を維持するために、究極の選択について国民からの理解を得ることではないのだろうか。
◇「2020年東京五輪・パラリンピック」を前に、日本各地の景色が変わっています。景色だけでなく、人々の生き方や価値観も変わりつつあるのではないでしょうか。「ハゲタカ」などの著作で知られる作家の真山仁さんが、移り変わる「いま」を、多様なPerspectives(視線)から考えます。