深い理解には、知識がモノをいう

タイムを読む

 明日から学校。
 あいかわらずテレビと映画、雑誌の生活。
 この前、松本道弘氏の「Timeを読む」「私はこうして英語を学んだ」を1日で再読した。見えてくるものがあり、特に読書道は見えてくるものがあった。いわゆる「守」「破」「離」のことだ。
 松本氏の言葉を借りると、「ゼロからスタート、無理して速く読む、情報量が増える、FORが拡大する、問題意識が生まれる、知的好奇心が高まる、より積極的に速読ができる、速く読むことが負担でなくなる、自由自在のスピードでどんな読み物でも自然に読めるようになる、読んでも読まなくてもいいという心境になる」。これは、実際いろいろなものに通じる。英語を剣に例えれば、段外者は「型」を守るので精一杯。英語という剣が重くてしかたがない。しかし、重いからといって軽いもので練習していてはなかなか伸びない。不自然に無理をして、自然に英語という剣を振れるよう努力する。すると、剣が負担でなくなるような時期がきっと来る。それが「破」の段階である。英語という剣が軽くなると、かなり自由自在に扱えるようになる。相手と剣をまじえる時も、無駄なく、効率的にその勝負から学べる。ポイントがしぼられ、学ぶことは少なくなり、本人にとって大事なことだけになる。「離」の段階では、経験、技術、知識ともに豊かになるので、読んでも読まなくてもいいという段階になる。そこまで成長するということだ。「英語ができる」と簡単にいうが、案外「あなたは英語ができますか?」などという人に限って、その「できる」中味がはっきりしていないことが多い。英語ができるという中味は、そして段階は、結構複雑であるからだ。
 自分はいま、多読、乱読、多聴、乱聴し、アメリカ合州国を中心とした絶対的知識量の増大、いわゆるFOR(「知的枠組み」)の拡大をめざしている。アメリカの小学生・中学生・高校生になった気分である。雑誌Timeが読めない、映画がどうも聞き取れないとは、自分のFORの不足から来るものだと気づいた。たとえばTimeは、政治・経済・科学と、あらゆるものをジャンルとしているが、自分にとって得意分野と不得意分野とがある。教育などは、やはりわかりやすい。それは、日本語によるものでも、かなりのinputがあるからだ。大衆音楽なども、わかりやすい。日本語を通じて理解された知識量がものをいうからだ。日本語でも、経済に弱い人は、英語でも経済に弱いのが常だ。
 例えば、KKKがわからなければ、KKKをパロディ化したギャグはわからない。知識がモノをいうからだ。
 当たり前のことだが、やはり私にはアメリカ人の発想、モノの考え方がよくわかっていないようだ。