「やまと言葉」は何故むずかしいのか

Japan Center

 今日Japan Centerにある紀伊国屋書店で立ち読みした三木園子著「聡明な女の英語術」が面白かった。最近紀伊国屋書店での立ち読みが多くなった。
 さて英語の「大和言葉」についてだが、「大和言葉」のマスターは大変困難で、腰砕けになる人が多い。
 何故か。辞書を引いてもわからないのが普通だから。ビギナーには、社説風の固い読み物や説明文の方が読みやすいことがある。もっとも、雑誌Timeなどはまだ無理だから、「人工的で固い日本式英語」と言った方がいいかもしれない。けれど上級者になると違う。大和言葉の方が易しくなる。歌なども、大和言葉が多いことと、英米の風物、常識が盛り込まれているため、ビギナーには難しくなる。
言葉の学習はフラストレーションの連続である。
 英語の大和言葉のマスターが何故難しいのか。何故辞書を引いてもわからないのか。証明してみよう。

 少し前に古今亭志ん生の落語を久しぶりに聞いた。例えば、「物をかける」「おはらい(をしてもらう)」(金を払うこととのかけ言葉に後ほどなる)「二足三文」「どうにもしょうがない」「しょうのねぇ野郎だな」「侘びがかなう(許してもらう)」「そうくるだろうと思った」「そっちへやっときなよ(お酒に対して)」「しめた」「しまった」「首をくくる」…。
 これらは日本人なら当然わかる。読書によるinput、その他のinputで理解できる範囲にあるからだ。日本という文化圏に生き、江戸も含めて歴史を学び、江戸町人文化も知的枠組み(frame of reference)に入っているからだ。ところが、外国人にとっては挑戦的だ。特に、nativeと話す機会もなく、辞書でコツコツやっている人にとっては、お手上げである。が、彼らは文を分析するのは慣れているだろうから、これらをバラバラにして辞書を引くかもしれない。idiom辞典のいい奴があれば、なんとかなるかもしれない。それでも、エントリーとして載っていなければ、それでおしまいである。日本語の「しめた!」「しまった!」は、全く逆の意味だが、可愛そうにビギナーの外国人にはピンとこない。機械的な「お勉強」では語感が身につかないからだ。倉谷直臣氏が「英会話上達法」(講談社新書)で書いていたことを思い出す。ニューヨーカーが「先生、この石の死活が理解しません。死活について教示するか」と言っても驚かないが、「どうも見えん」と碁盤を見ながらポツンと言ったときには驚いたと。「見えん」は日本語の大和言葉だ。
 つまり、答えは辞書にはない。膨大に読まなければ、語感は身につかない。辞書を尊びて辞書に頼らずの心だ。

 この前も紹介したように、キンピラ(kin-pira)について私に聞いた外国人を思い出す。紀伊国屋書店にいたからには、彼は日本通なのかもしれない。「キンピラ」を分析していたが、私が”Just a name!”(単なる名前だ)と言っても、フラストレーションを感じているようだった。
 日本で必死に日本語と取り組んでいるアメリカ人教師と友達になりたいと思う。アメリカ人だったら、誰とでも話しかけたい、友達になりたいという考えは、はしたなくてできなかったが、日本に帰ったら日本語にフラストレーションを感じながら取り組んでいる同好の友人にめぐり合いたいものだ。
 これから本当の挑戦が始まる気がする。
 ディベーターであるということは、人間形成手段にもなる。生活指導とも矛盾せず、教科教育と生活指導の両方に磨きがかかるだろう。英語をやっている人は、英語だけではない人間的幅があると思う。