留学生活はなぜ苦しかったのか

basking

 今日は月曜日だが、「大統領の誕生日」ということで休みである。大統領の誕生日といっても、正確にいえばロナルド・レイガンの誕生日は違うらしいが。
 この2日間、雨も降り続け、今回の留学の総括をノートに綴る日が続いた。
 総括すべきテーマは、読書の仕方についてと、留学生活は何故苦しかったのかということである。
 読書の仕方については、日本語の論理は、時に根拠や証拠がなく、感情的で、突き放したクールな見方でなく、徒然なるままに書かれたものも多く、主語もときにわからない場合もあり、起承転結が不確かなものもある。どの言語にも論理があるように、日本語にも当然論理はあるのだが、それが顕在化していないことがある。そうでなくても日本語においては、なんとなくわかるという関係性が重要なのだ。しかし、アメリカ英語の論理は違う。留学で一番苦しかったのは、日本的論理(日本的ゲーム)とアメリカ的論理(ゲームの仕方)の違いである。
 日本で物事を明確に、論理的に、強く主張すると、村八分にされる恐れがある。何故か。日本的gameのルールから外れるからだ。日本的ゲームでは、建前で、ジャブともいえるやりとりがあり、「それでは」ということで本音が出てくる。この「それでは」は、論理的帰結を意味しない点が日本的gameたる所以である。
 また、communicationだが、こちらでは個と個の対立が明確である。いわゆるdebateだが、これ留学前だったら、自分のような日本人から見ると、まるで喧嘩で馴染まない。Interviewなどでも攻撃的(目的意識的)なものが多い。おそらく日本のインタビューは、何故、何が目的でインタビューしているのか、わからないものが多いように思う。それでも日本人は満足なのだ。違うinterviewを知らないので、そうした選択肢になる。私は、ようやくdebateの必要性を悟りdebateを学ぼうとしているが、debateの必要性に気づくにも、そうした言語的環境に入らなければ無理だろうし、多少の力量もいる。
 自分は自分という自覚、確固としたidentityがないと英語は喋れない。このidentityを、異国との狭間で悩み続けた6ヶ月だった。今多少なりとも自分を分析できるというのは、identityが確立されつつあるということなのだろう。
 曖昧に言わず、明確に言う。日本的発想を捨てて、debateに目覚める。Debateを和の手段にする。自分の悩みは成長過程の悩みだったのだ。多分に錯覚かもしれないが、昨日の総括をもって新しい段階に突入した気がしてならない。