ちゃんと学ばないとね

 westernize、結構ではないか。ただ、雰囲気だけに留まってはいけない。苦しむほど、彼らの論理を学ぶべきだ。
 いまSteely DanのCan’t Buy A Thrillを聞いている。雰囲気が楽しめるが、それだけではいけない。

 Doobie Brothersを聞く。雰囲気もいい。サザンも所詮日本のロジック。westernizeされているとはいっても、それはかっこだけだ。
 この前、日航機事故の日本の放送を見た。「なんと申し上げていいのか」と、しきりにアナウンサーは言っていた。事実はあまり明らかにならない。実に日本的だ。もちろん事実だけ主観とは切り離して報道すれば、「冷たい」「クール」「事務的」の批難を浴びよう。それだけ違うのだ。みんな悲しい顔をする必要がある。言い過ぎかもしれないが、例え悲しくなくても。日本の報道はベタベタしている。陰にこもっている。カラッとしていない。どちらがいいとか言っているのではない。価値判断をしているのではない。違うということ。そして、だから俺はdebateを学ばなければならない。ただそれだけだ。音楽を聴いているくらいなら悲しくない。コンサートへ行って雰囲気を味わうのも結構。しかし、私はパーティでも苦しまぬよう、自分自身を確立したい。この域は二段。
 ちょっとwesternizeされているというのは何の意味も為さない。日本人の間では、ムードが好き、ロマンチックだということで意味が、あるグループの中では意味があるかもしれない。しかし、それは全く空しい。井の中の蛙だ。本多勝一が言うように日本は「秘境」かもしれない。ただのwesternizeは、無批判に与えられたものに飲み込まれることで、白痴化を起こす。自分にとってどういう意味になるのか、考える必要があると思うが、どうか。
 westernizeは悪いとは思えない。西洋から全く孤立というのも現実的でない。ただし、考えること、学び方だ。
 パーティで、U.C. Extensionの先生は、一人残らずみなgayだと言っていた。これだけでもサンフランシスコは特別だが、しかし、これをクールに見れるようになってしまった。