ツランガヌイ・ア・キワ(現在のギズボーン)の歴史は古い。ヨーロッパ系との関わりも重要なものがある。
まず、ツランガヌイ・ア・キワの町の前に広がる湾を英語でPoverty Bayというが、その由来は、キャプテンクックと深い関連がある。
1769年10月9日、キャプテンクックはアオテアロアの大地に足を降ろした最初のヨーロッパ人だったが、その結末はカイティ(Kaiti)ビーチで、4人のマオリが殺されるという悲劇となった。このときクックが必要としていた食料供給など得ることができなかったので、この湾を「貧困の湾」と名づけたのであった。
だから、ギズボーンには、キャプテンクックの像が、この「貧困の湾」を背にして立っている。その近くには、エンデバー号に同乗していて、一番先にアオテアロアの陸地を発見したと言われているニック少年(Young Nick)が陸地を指差している像が、ヤングニック岬の方を差して「貧困の湾」に向かって立っている。
それで、ツランガヌイ・ア・キワには、1831年に最初のヨーロッパ移民がやって来たようだ。
1840年には、ウィリアム=ウィリアムズ(William Williams)が布教所を設立するが、多くのマオリがすでにキリスト教徒になっていたという。これは何故かというと、ベイオブアイランズでキリスト教徒になっていたマオリから、教えてもらっていたという理由だ。
それでも、ワイタンギ条約の存在など、この辺鄙な東海岸のマオリには知られていなかった。だから、ワイタンギ条約に署名をするどころの話ではなかった。条約の存在を知らないのだから当然である。
1863年には政府が土地を購入。有名な人物としてキャプテンGリード(Captain G. Read)という人物がいるけれども、貿易商や農民たちが土地を購入していたが、ハウハウ(Hauhau)運動が彼らの生存を脅かしていた。
このハウハウ運動は、キリスト教の哲学とマオリの価値観の両者を合わせたもので、ヨーロッパ的な価値観を敵視していた。
マオリの予言者ケレオパ(Kereopa)とその弟子たちは、1865年にギズボーンにやって来て、この地域のマオリを、この大義のために集結させた。
これを支持するか否かで地域のマオリは2つに割れて、ルアトリア(Ruatoria)とワエレンガアヒカ(Waerengaahika)で、結局2つの戦闘となった。
政府軍は、後者のワエレンガアヒカでの戦闘を支持したが、鎮圧するのに一週間かかったけれども、地域のハウハウ運動の脅威をつぶすことができた。
しかしながら、この戦闘で、政府を助けたテ=クーティが、敵を助けたことで非難され、裁判もなしにチャタム諸島へ流されてしまったのだった。