テ=クーティについて学ぶ

 テ=クーティ(Te Kooti)は、19世紀初頭に、ポバティベイ のロンゴファカアタ(Rongowhakaata)族に生まれた。
 テ=クーティ(Te Kooti)は、アングリカンミッションスクールに行った。
 政府軍に包囲されていた際に、ギズボーンのハウハウ(Hauhau)を支持したことで当時若者だったテ=クーティは非難された。
 1865年、テ=クーティは、たくさんの人と一緒にチャタム諸島(Chatham Islands)に島送りにされたのだ。
 ここでテ=クーティは、リンガトゥ教会(the Ringatu Church)設立の悟りを開くのだが、1867年には、ライフルマン(Rifleman)という船で、200名以上もの、男女、子どもと一緒に、チャタム諸島からの脱出を指揮するという離れ業をやってのける。
 彼らはポバティベイに上陸し、テ=クーティは配下の者に右手を上げるようにうながした。リンガトゥという名前は、ここから由来しているという。
 精神的・宗教的指導性としてどちらが指導性があるのか、テ=クーティは、マオリキング運動の王であったタフィアオ(Tawhiao)に挑戦した。政府側のレジナルド=ビッグズ(Reginald Biggs)によって両者ともに武器を捨てるように要請されたが、要請は無視され、小競り合いが始まった。こうして政府軍は、面目丸つぶれの一連の敗退を繰り返すことになる。けれども、テ=クーティがワイカトにたどり着くころには、タフィアオによって拒絶を余儀なくされる。
 テ=クーティは、ポバティベイに戻り、マタフェロ(Matawhero)を攻撃し、ビッグズや、彼の最初の妻の父を含む数名のチーフを殺し、彼は憎まれ、そして恐れられるようになる。
 しばらくテ=クーティは、ポバティベイを支配するが、あだ討ちをしようとやっきになっている他のマオリの部族からの攻撃に直面し、ウレウェラ山脈(Urewera Ranges)に隠遁をせざるをえなくなった。
 200名もの兵を組織し、奮起させ、白い馬にまたがって、攻撃するさまざまな戦法を手=クーティは採用していた。
 テ=クーティがキングカントリーに進入する際には、多くの戦闘が起こったが、1873年に、とうとう彼は闘いをやめた。テ・クイティ(Te Kuiti)にある彼の本拠地で、リンガトゥ教会の儀式を定式化した。予言者(prophet)、神霊治療家( healer)としての彼の名声は高まり、以前の敵とも平和のために力を尽くし、彼の信条は流布していった。テ=クーティは、ポバティベイに帰りたがったが、従来の彼の敵がこれを許さなかった。
 許しを得てからは、オヒワ波止場(Ohiwa Harbor)に住むようになり、その地域の他のリンガトゥのセンターを頻繁に訪れるようになった。結局彼はポバティベイに帰ることはなく、1893年にオヒワで死んだ。
 マロマフエ(Maromahue)に埋められていた彼の死体は、彼の弟子に運び去られ、今日なお、どこにテ=クーティの死体が埋められているのかはわからないという。