コミュニケーションには双方の歩み寄りが何よりも大切であることを忘れてはいけない

amamu2006-02-07

 預言者・モハマドを描いたデンマークの「漫画」(cartoon)が原因で、「物議」(controversy)をかもし出している。これをムスリムが「きわめて侮辱的だ」(offensive)と考えることから、ベイルートデンマークの大使館が燃やされたり、「大暴れ」(rampage)状態が世界で続いている。
 こうした危険な状態から、「信管を取り除く」(defuse)ことに失敗したら、どうなるのか。
問題は、「グローバル化した世界 」(globalized world)で、平和的共存(peaceful coexistence)が可能なのかどうかという問題だ。
 「言論の自由」(freedom of speech/ freedom of expression)は言うまでもなく、重要である。イギリスなどでは、王室をマンガで取り上げるのは、日常的風景に過ぎないとも聞いている。それは、そうしたことが許される文化なのだ。私は物議をかもしだしたこのマンガを実際に見ていないが、ヨーロッパ的視点の範囲内であればおそらく合法なのであろう。しかし、それはヨーロッパのメディアという限定した範囲の中での話だ。イスラム文化では、モハマドに限らず全ての預言者を、マンガで扱うことは、「禁止」(prohibition)であると、インターナショナルヘラルドトリビューン紙に紹介されていた。
 それを「侮辱的だ」と感じる人たちが多く存在し、不快感を示している場合、そうした感情を無視して、「言論の自由」を主張したとしても、コミュニケーションとしては不毛以外の何物でもない。とくに今回の問題では、いわゆる「過激派」(extremists)や「根本からモノを考えるそもそも論者」(radicals)ばかりではなく、「平均的ムスリム」(average Muslims)の怒りが噴出しているのだ。
 もちろん、暴力はいけない。非暴力で訴えるべきだ。テレビには放火などの情景が写されることが多いが、非暴力で訴えるムスリムは少なくない。
 大事な点は、コミュニケーションがうまくとれない場合は、双方が歩み寄らなければならないという点だ。なぜならば、コミュニケーションとは、常に双方の問題であるからである。コミュニケーションがうまく取れない状態を、回復できないようなコミュニケーション能力では、実際、困るのである。
 いまアジアで日本が孤立している問題にも、同様の問題がありはしないか。