「議論も説明も事実検証もなく、受け取るのは侮辱と非難と、訴えるぞ、という脅し、そして専門家のお題目」

amamu2006-03-09

 アルンダティ=ロイの「誇りと抵抗 ―権力政治を葬る道のり (集英社新書)」(集英社新書)が届いた。
 全部は読みきっていないのだが、否定しづらい言葉が続く。
たとえば「女たちは気づいている… “専門家”に任せてはおけないことに」というエッセイの中に、「問題は、ひとたびそれを見てしまえば、見ていないではすませなくなることだ。そして、ひとたび見てしまったら、黙っていること、なにも言わないことも、大声で言うことと同様、政治的行動になるのである。知らぬ顔はできない。いずれにせよ、説明する責任がある」とある。
 自らの行動を一致させ律することができるかどうかは別にして、彼女のこの言葉を否定することはできない。
 また、議論を避ける「専門家」を批判するくだりでは、「どんなに戦闘的に、舌鋒鋭く怒りの言葉を唱えようと、結局のところ、わたしはひとりの市民にすぎない。情報公開と説明を求める多くの市民のひとりにすぎない。自分を利しようという気持ちは毛頭ない。守らねばならない職業上の利害もない。いつでも耳を傾ける準備はできている。考えを改める準備はできている。それなのに、議論も説明も事実検証もなく、受け取るのは侮辱と非難と、訴えるぞ、という脅し、そして専門家のお題目。『あなたは感情的すぎる。おそらく理解できませんよ。複雑すぎて説明できない問題なのだから』。むろん言外の意味はこうだ。小さなおつむをひねってないで、さあさあ、向こうへ行って玩具で遊んでなさい。現実の問題はわれわれに任せて」というパラグラフがある。
 「専門家」とは、一体なんだろう。
 権力者のための用心棒、すなわち御用学者が専門家であるはずはないのだが、実際には、こうした私利私欲しか考えぬ勇気なき御用学者が多いのはどうしたことだろう。