加山雄三扮する田沼雄一が活躍する東宝映画「若大将」シリーズは、俺が中学生になる直前の小学生時代、熱烈なファンというか、憧れをもって観ていた。
ブレイクは、なんといっても「エレキの若大将」(1965年)で、その後、「アルプスの若大将」(1966年)もリアルタイムで観た覚えがある。
なにしろ、大学スポーツで活躍し、楽器ができて、バンドで演奏し、唄を歌って、海外にも出かけ、英語も話せる。これでは女の子にもてない方が不思議というもの。実際、若大将に関心を寄せる女子大生が少なくないのに、照れ屋というのが良かった。貧乏人だった俺は、子ども心に、一生海外なんて行けないと思っていた。英語も一生話さないと思っていた。贅沢な遊びであるスキーも不可能と思っていた。だから、若大将シリーズの映画を観ることは、庶民が実現しえない夢をかなえる代償行為に他ならなかった。もし、若大将シリーズが単なるお金持ちの話だったら小学生の俺はそれほど熱狂しなかっただろう。加山雄三の中に育ちのよさと同時に、庶民的なしかけがたくさんあったから、敵視せず共感して見れたのだと思う。だからこそ、国民的人気も獲得できたのだろう。B級映画であろうがなかろうが、庶民は自分の夢をそこに見ていたのだ。
星由里子扮する澄子さんも、澄子さん自身はサーフィンもスポーツも得意そうではなく*1、そして一貫してスポーツをやるシーンが映画の中ではほとんど出てこない。そんな澄子さんは、最後には誤解を乗り越えて大学対抗戦に出場する若大将を応援することになっているのだが、たいへん魅力的だった。澄ちゃんが、田沼雄一の同級生の女子大生を演じることはなく、今でいえばキャリアウーマンというか、ある意味いつも少し上層の勤労者の役柄だった。澄子さんが勤める会社には、大抵いやらしい、今でいえばセクハラ上司がいた。それで、澄子さんは外見はとても美しいのだが、性格は良いとは言えない。性格の悪さを外見でカバーしているような、ちょっぴり性悪女なのだが、世の中不公平なもので、やはり美人は得になっているのである。ぼんぼんの若大将も、ぼんぼんらしく、性格的に無難そうな他の女子大生やときに登場する外国人の女性たち*2よりも、なんといっても「澄子さん」が好きで、常に若大将は澄子さんの守護神なのである。
この点で、「若大将」シリーズは、「寅さん」と同様、女性と性的に結ばれることのないクリーンエンターテイメントであり、両者は、ある意味、女性を守るという「騎士道精神」に貫かれている。実は、その点も私の好みなのだが、当時は小学生だったから一層そうだった*3。
展開は容易に想像できるのだが、「若大将」シリーズは、こうしたプロットが恐るべきワンパターンで展開していく。
田沼雄一も「田能久」というすき焼き屋のおぼっちゃん育ちだが、会社社長のドラ息子の田中邦衛扮する青大将から比べると、成金趣味的には格が少し落ちる。青大将が鉄筋コンクリートの社長の家に住んでいるとすれば、田沼家の田沼雄一は、木造の家に住む江戸っ子庶民である。和の伝統を引き継いでいる。今ではそちらの方がむしろ豊かだろうという評価になるかもしれないが、父親役の有島一郎の「勘当だ」という台詞がいいし、飯田蝶子扮するおばあちゃんの「肉まん、食べるかい」という暖かく見守るまなざしもいい。雄一の母親は全く登場せず、息子と父親とのどうってことのない確執があるのだが、おばあちゃんと妹で脇を固めるのも、田沼雄一のおぼっちゃんぶりを示しつつ、祖母の溺愛を受け、妹にはお兄さんぶりを示せるという意味で、ちょっと能天気で幼児性のある田沼雄一を絶妙なバランスで保っている。
それでも、若大将の部屋には、俺の記憶では、ドラムスやエレキギター、ウクレレなどの楽器と、水産大の学生っぽいものや、アメフトのボールやスポーツ関係の道具もあって、バタ臭く、うらやましい部屋だった。これは「銀座の若大将」の頃の丁稚奉公に行ったときはもっと貧しい暮らしぶりだかったから、若大将も暮らしぶりがよくなったと言えるのかもしれない*4。
わたしが生まれて初めて買った記念すべきドーナツ盤のレコードが、「エレキの若大将」の挿入歌であった加山雄三の大ヒット曲・「君といつまでも」で、カップリングは「夜空の星」だった。自分にとっては音楽に興味をもった最初のできごとであった。何しろ、子どもながらに自分の小遣いをはたいてこのドーナツ盤を買ったのだから。
当時の加山雄三は、子どもの目線からしても歌唱力はそれほどあるわけではなかったが、素人でも歌が作れるというような素人っぽい曲想が好きだったし、そうした素人っぽい歌を、これまた素人のように加山が歌うのが好みだった。その意味で、加山雄三は、シンガーソングライターの元祖ともいえるのだろう。弾厚作がつくるメロディは、コード進行が少し変わっているものもあって、その点も手作り感があった。
その中で、とくに私がしびれたのは、なんといってもインストルメンタルの「ブラックサンドビーチ(Black Sand Beach)」だ。これは今聞いても名曲だと思う。
加山は、不良でなくてもエレキギターを弾けるという貢献をした。
加山は、俳優・上原謙の息子であり、当時は庶民には高根の花であった「船」「スキー」「エレキギター」など、さすがに「船」は別にしても、今では庶民にとっても当たり前になりつつある遊び道具が、加山雄三の場合は、恵まれた家庭環境の中ですでに周囲にあったのだろう。
唄に歌われている素材は、海や自然のものが多い。これまた名曲といえる「ブライトホーン」、「夕陽は赤く」「旅人よ」「二人だけの海」「海の上の少年」等、海や自然を歌っている。
中学生になってからの私はBeatlesなどの洋楽ポップスを聞き出し、加山雄三を“卒業”した。加山雄三の英語の歌詞である「ブーメランベイビー」も英語で覚えたが、さらに加山が「いい娘だから」のような歌謡曲調の唄を歌いだしてからというもの、ますます加山雄三の音楽と自分との距離は離れた。
その後、中学時代はアメリカ合州国のFolk songを聞き始め、高校時代に、Peter, Paul & Mary、そしてCrosby, Stills, Nash & Young、さらにBob Dylanへと、アメリカ音楽文化に突き進むのだが、高校生となってアコースティックギターを弾き出した頃は、日本の唄であれば、貧困をベースにして加川良など日本のフォークソングを聴いていたから、もう加山雄三を聴くことはなかった。
しかし、貧乏人だった俺でも、長年経ってみれば、田沼雄一の世界に近づいてきたことに今更ながら驚く。高校時代はギターも弾いて唄を作ったこともある。教師になってからは仕事柄、海外に行くことも、英語を話すこともある。家庭をもってからはスキーも始めた。昨年、久しぶりに下手くそなスキーも再開した。こうして振り返ってみると、若大将の世界が、時代の先取りをしていたことに間違いはない。
もうひとつ、私が加山雄三のことで思い出すことは、私の記憶に間違いがなければ、朝日新聞社の本多勝一記者が、ベトナム戦争だったか取材後帰国した際に、日本ではやっていた流行歌が、加山雄三の「君といつまでも」で、「ボカぁ幸せだなぁ」という台詞を聞いて唖然としたというエピソードがあった。日本の能天気さを言っていたのであろう、この指摘は今でも思い返すことがある。
その加山雄三も、今年芸能生活50周年で、73歳だという。健在で、元気で活躍を続けている。
今回「若大将50年!」というCDを買って聞いてみて驚いた。声はたっぷりと出ていて、まるで枯れていない。中でも「夜霧よ今夜も有難う」「愛燦燦」などは、アレンジも含めて演奏が良かった。「夜霧よ今夜も有難う」などは、オリジナルとニュアンスが違っていて、まさにカバーはこうでなければと思わせる出来栄えだった。加山の歌声は優しさにあふれ、50年の経歴の重みを感じる。
俺は団塊の世代ではないけれど、「座・ロンリーハーツ親父バンド」という曲も、団塊の世代への応援歌としてとても良かったが、加山がこれほど元気なのは、船など、自分の好きなことをやってきたからだろう。
俺も、大いに好きなことをやって、見習わなくてはいけない。
加山雄三さんの50周年ということで、俺も自分のことを少し振り返ってみた。