「演劇‐時間のユートピア」

この人から受け継ぐもの

 井上ひさしさんの「この人から受け継ぐもの」の中でも、とびきり興味深かったのは、「演劇‐時間のユートピア」という一文だ。
 井上ひさしさんは、「じつは、これはぼくがひそかに思っていることですが、宮沢賢治が長生きをして芝居を書くとすればこういうのを書いたのではないかなということを、ぼくはちがうかたちでこっそりやらせてもらっているつもりでいます」と告白している。
 「意識としては、賢治が生きていたらこういうものを書きたかったのじゃないかと思いながら書いているのが意外に多い」とまで井上ひさしさんは言っている。
 また、別のところで、井上ひさしさんの考えるユートピアについて語っている。これが面白い。

 井上ひさしさんの考える「成立可能だと思うユートピアは、空間ではなくて時間のユートピアです」ということだそうだ。
 
 

よくあることですが、たまたま友だちが集まって、時間を忘れて話に熱中することがあります。この「時間を忘れる」というのが、ぼくが考えるユートピアの最初の条件です。
 みんな楽しく昔のこととか、映画のこととか、芝居のこととか、本のこととか、もちろん賢治のことでもいいいのですが、ワーッとやって夢中になって話している。
 ところがそうして話に夢中になっていると、きまって、そのなかで一人アホなのが「おれ帰る」と言い出します。それはその人だってその場が不愉快でそう言うのではなくて、かならず時間の問題で「帰る」と言い出すのです。
 たとえば、「おれ終電車まにあわないから帰る」とかね。そんな言葉が出た瞬間に、その場に現実の時間が入ってきます。

 これはよくわかる話だ。
 俺の大学時代のゼミがそうだった。
 先生とゼミ生らと語る楽しい時間ときたら、まさに至福のときだった。
 昼間のゼミも、ゼミ合宿も、夜のお酒の入った語らいも、同じように時間を忘れて語り合う至福のときだった。そして、「俺、帰る」という奴もおらず、もしいたとしても、「帰るなら帰れ」という雰囲気だった。

 続けて、井上ひさしさんは、「ぼくは芝居を一生懸命やっていますが、芝居の劇場はユートピアを成り立たせる空間なのです」と語り、「演劇という装置は人を集めて時間のユートピアをつくりだし、その宇宙で一回だけの集まりが毎晩できてはこわれていくものだと思うのです。そのできてはこわれていくというところに、私は非常に生きがいを燃やしています」という一文に遭遇して、そうか、やはりそうだったのかと思ってしまった。でなければ、井上ひさしという人間が、戯曲と劇づくりにあれほどまでに情熱を燃やし熱中しなかったろうと思えてならない。