「いま『開国』の時、ニッポンの教育」を読んだ

いま「開国」の時、ニッポンの教育

 尾木直樹リヒテルズ直子さんの「いま「開国」の時、ニッポンの教育」を読んだ。
 本書が発行されたのは2009年。
 3・11の前である。
 子どもたちが幸せと感じていない日本。
 オランダは、幸福感世界一だそうだ。
 本のオビに、「オランダから日本の教育をみると、歴史的に積み上げてきた民主主義の成熟度が違います」。日本は「世界から3周遅れ」とある。
 
 「3周くらい遅れている」というのは、もちろんたとえ話である。
 レトリックの話だから、大雑把なイメージで言っているのかと思ったら、リヒテルズ直子さんなりの意味づけがきちんとある話であった。
 この「3周遅れ」について、リヒテルズ直子さんは次のように言う。

オランダの教育史における政策上の議論であるとか、制度改革の進み方などをみていると、日本は、やはり、オランダの教育づくりの歴史には3周くらい遅れているのかな、と最近とくに強く思います。第1周目は、「啓蒙主義」によって導かれた近代人としての人間観、思想や表現の自由を大切にするという意識という点、第2周目は、人々が、お互いに同じ社会で受け入れあい認め合って一緒に社会をつくっていくための「機会均等」の意識、貧しい人に富める人と同じスタートラインに立たせようという意識、と言い換えてもいいと思います。そして、第3周目は、こういう西洋に育った人権意識を、西洋以外の文化的背景を持つ人々と分かち合おうという新しい意識という点での遅れです。
 オランダでは、第1周目は、16−17世紀に、第2周目は1960年代後半から‘70年代にかけて起こり、そして、第3周目は、今まさに進行している段階だと思います。それぞれの段階は、前の段階をクリアしていないと積み上げられないという意味で、日本は、何よりも第1周目のところが乗り越えられていないために後の2周も空回りしている、というように、私には見えるんです。


 それで、このあとに、「日本は、何よりも第1周目のところが乗り越えられていないために後の2周も空回りしている」という意見が紹介されているのだが、なるほどと私は膝を叩いた。

 というのは、最近、自分自身、日本はなぜこうなのかと、日本の近代化の問題に関心をもちはじめ、福沢諭吉中江兆民植木枝盛らの著作を読み始めているのだが、たとえば「三酔人経綸問答」で恩賜の民権から回復の民権へと兆民が言っているように、民権を自分たちのものにできているのかという課題がいまだ私たちに残されていると思い始めているからである。つまり、西洋の市民革命期の思想が、きちんと私たちに根づいていない課題にあらためて深く気づかされたからである。

 「第2周目の『機会均等』の問題をクリアしていない日本人には、外国人の発達の権利、教育問題をきちんとオープンにみんなで話し合っていくことができないのです」というのは、まさにその通りだろう。いま、日本の教育は、たとえば「いじめ」と言われる人権侵害で容易に理解できるように、外国人の権利どころか、自分たちの教育問題で手いっぱいである。

リヒテルズ直子さんによれば、オランダでも、啓蒙の精神が広く一般の人々に広まったのは、1960年代後半から1970年代の時期だったという。身体的精神的、社会的経済的なハンディキャップを持つ人々は、可能な限り、そのハンディキャップを補わないといけない。教育の「機会均等」や「社会福祉」の思想だが、こうした課題を結果的に日本の政治と教育は怠って全くサボってしまった。
 それで、教育の思想と教育制度からすれば、「3周くらい遅れている」ということになってしまったという結果なのだろう。

 尾木先生の「あとがき」に、「時折ふと、リヒテルズ氏の話についていけない自分に気づきました」と率直な感想があり、その理由を「私自身も、”3周遅れの日本”に暮らす一人の日本人に他ならないから」と分析している。

 まさにその通りだろう。以下の「あとがき」の尾木直樹氏の言葉を私たちは噛みしめなければならない。

改めて活字で『読む』と氏*1のお話は大変わかりやすいのに、『啓蒙主義』や『民主的』*2、『平等』、『共生』という言葉を耳から音声だけで聞くと、”言語明瞭、意味不明”状態に陥るのです。まるで社会科の教科書を読む学習感覚で受け止めないと話題の中で具体的なイメージを伴って『理解できない』のでした。なぜなら、私自身の日常生活のなかにこうした『概念』と『実態』があまりにもないので思想が血肉化されていないのでした。

 「思想が血肉化されていない」。


 まさに、その通りである。


 その意味で、最近思いついたのだが、いまの日本は市民革命期の段階以前といってよいのだろう。そう考えた方が、いろいろな現象を容易に理解・説明できる。それが現在の私の観察・認識である。

 本書には、とりわけ小泉・安倍政権時代の政治のひどさと同様に、ジャーナリズムのひどさ。そこからの脱却方法。大学入試をやめて、「卒業資格制度」をしっかりさせる課題などが紹介されている。
 それと、イギリス・アメリカというモデル*3はやめて、ヨーロッパを見て学んでほしいというメッセージである。
 本書を読めば、教育の方法論として、対話と討論が重要であること。本物を見せることの重要性をあらためて学ぶことができる。
 「シチズンシップ」教育やその他、いろいろと引用したいものがたくさんあるが、教育に関心のある方たちに、いや、日本人に是非本書を一読してほしい。
 現在の日本の思想状況・思想環境から、リヒテルズ直子さんの話を理解することは、結構難しいのだけれど。リヒテルズ直子さんの話を、「それはそうだよね」「あたりまえだよね」という社会にならなければいけない。

*1:リヒテルズ直子さんのこと。

*2:尾木直樹氏は、本書の本文のところで、「恥ずかしいのですが、私が去年の9月、10月くらいにフィンランドとかスカンジナビアとかを回っていた時、どこに行っても民主主義という言葉がポンポン出てくるわけですよ。今日のリヒテルズさんからも先ほどから民主的という言葉がしょっちゅう出ます。日常的な用語として使われるわけでしょう。日本では絶えて久しく感じるくらいみんな使わない。いや、使うと浮いてしまう不安感があって使えないのです」と述べている。

*3:リヒテルズ直子さんは、英語圏なら、カナダがよりましというような発言をされている。