勉強はかならずしも嫌いではなかったけれど、受験勉強となると途端にやる気をなくす”不真面目”な高校時代だった。それでも自分なりに好きで一番勉強したのが英語だった。その次に自分なりに勉強したのが、入試のせいもあって日本史だったと思う。一番興味が湧かなかったのが化学だが、自分の好きなものと嫌いなものとがよくわかって、高校時代にあれこれやらされたのは意味があったと思う。
今回鹿野政直さんの「近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))」を初めて読んで感じたことは、高校時代、歴史的に著名な人物、その名前と著作などは、あれこれ聞いたことがあったけれど、当然のことだが、内容的には表層的にしか理解できていなかったということだ。本書を読めば、それぞれの思想がなぜ生まれてきたのか、その物質的基礎、それぞれの思想の対立と矛盾、それぞれの思想がもつ進歩的な側面、反動的な側面、何故そうした拮抗関係や対抗関係が生じるのか、そのダイナミズムがわかりやすく活写されている。
それで思うことは、大学入学試験という制度の弊害である。
言い方をかえれば、日本の歴史を、学ぶ側の一人ひとりの生き方として、可能であれば思想史として理解することの重要性である。高校時代に、日本の歴史を、現代に生きる者として、生き方にかかわるような学びはできないものだろうか。「近代日本思想案内」で書かれていることを、入試対策用に覚えるのではなく、その内容を理解する必要があるように思う。歴史上の人物たちが格闘し葛藤した、近現代史の中で問われている課題は、現代に直結し、いまだ解決をみていない問題がたくさんあるからだ。それは私たちの日々の暮らしにも直結している。であるならば、知識として覚えるのではなく、自分の頭で考えることが重要だ。
近代日本思想の中で、「多様な思想を造りだしながらも、その底には一貫するモチーフが二つあった」と鹿野さんは指摘する。
一つは、「クニとイエの問題」。いま一つは、「東と西の問題」であるという。「アジアと欧米を指すのですが、思想的、制度的に長く中国を中心とする東の影響下にあった日本列島の住民にとって、新来の西の軍事的、政治的、経済的、文化的に圧倒的な力は、たえず意識せずにはいられない存在」となったとして、次のように続ける。
反撥するにせよ摂取するにせよ、近代の日本人のあらゆる思想的な営為は、この問題*1を軸にしてなされたともいえるほどです。
また「欧化と国粋」の箇所の鹿野さんの次の指摘を否定することはできない。
欧化主義は日本を西洋と同一化させるという文脈で、また国粋主義は日本を西洋に対抗させるという文脈で、ともに日本のアジア支配の論理を準備したということもできます。
また、啓蒙思想家と違って、自由民権の中江兆民の思想性は、中江兆民がフランスで学んだことからもわかるように、その源泉を西洋に負ってはいるが、「留学からの帰途、アフリカやアジアで英仏人が、その土地の人びとに『犬豚』にも劣るような仕打ちをしているのを実見し、西洋の文明が、その域外にたいしては侵略・傲慢・抑圧・蔑視として機能しているとの認識」をもったという。
また、「国体の基礎としての家父長的な家族制度の擁護」において戦闘的であった、いわゆる民法典論争の穂積八束*2の役割。
一八九〇年、御雇外国人であったフランス人グスターヴ・E・ボアソナードの影響下に、個人主義的な色彩の強い民法が公布されると、その民法の実施か延期かをめぐって、いわゆる民法典論争が激烈にたたかわされますが、穂積は延期派の闘将となりました。
本書を読むと、「国体」の二文字で沈黙が余儀なくされる知的風土がつくられた歴史的経緯もよくわかる気がした。
ということで、本書をたいへん面白く読んだ。
コメントしたいことはたくさんあるが、紙幅が足りない。
「フェミニズム」の稿も必読である。
若い人たちに是非本書の一読を薦めたい。