平田オリザさんといえば、あの長いタイトルの「十六歳のオリザの未だかつてためしのない勇気が到達した最後の点と、到達しえた極限とを明らかにして、上々の首尾にいたった世界一周自転車旅行の冒険をしるす本」と「受験の国のオリザ」(晩聲社)をリアルタイムで読んだ思い出が俺にはある。
その後、劇作家として活躍され、遅まきながら、「ソウル市民」シリーズを、近年、立て続けに観た。
大阪大学の大学院でコミュニケーション教育の実践をされている平田オリザさんのこの本はなかなか面白い。
問題意識のひとつは、以前と時代も社会も違ってしまったということなのだろう。
その中で子どもたちが大変な思いで生きているということなのだろう。
だから、学校のプログラムとして、必要なコミュニケーション教育をしなければならないということなのだろう。
この本には、おそらく大阪大学のコミュニケーションデザイン・センターで、コミュニケーション教育とはどうあるべきかと、平田オリザさんの考えられてきたことが書かれている。またそこには、アメリカやアイルランドなど世界の各地でのワークショップでの体験も確実に土台になっている。
この新書で役に立った用語や表現を、乱雑に列記していくと、「ダブルバインド(二重拘束)」「必要がないから喋らない」「表現とは、他者を必要とする。しかし、教室には他者はいない」「「現場」という幻想」「マイクロスリップ」「人生、無駄があった方がいい」「適当に喋った方がいい」「現代口語演劇」「対話と討論の違い」「対話の基礎体力」「冗長率」「シンパシーからエンパシーへ」「協調性から社交性へ」「みんなちがって、たいへんだ」などがある。
あと、俺にとって、重要な問題提起と思われる表現は、以下の通り。
どうも私たち表現の専門家の側からすると、日本のこれまでの表現教育というものは、教師が子どもの首を絞めながら、「表現しろ、表現しろ!」と言っているようにしか見えない。
だって、優しい先生も、優しいお母さんも、異なる意見を持った人とうまくつきあっていく方法なんて誰も教えてくれなかったのだから。みんなわかってくれたのだから。
そのような環境で子どもを育ててしまった以上は、その子どもたちが「どうして、みんなわかってくれないの?」と感じてしまうことを、単純に甘えだと切り捨てることはできないだろう。
これもまた、時間を経た「ダブルバインド」とは言えまいか。
「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
いまの子どもたちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足しているのだ。
表現教育には、子どもたちから表現が出て来るのを「待つ勇気」が必要だ。しかし、この勇気を培うことは難しい。ただの勇気では蛮勇になってしまう。経験に裏打ちされた自信が「待つ勇気」「教えない勇気」を支える。
私は初等教育段階では、「国語」を完全に解体し、「表現」という科目と「ことば」という科目に分けることを提唱してきた。
いま大事なことは、この「よく覚える」という点だ。「たくさん覚える」「早く覚える」という教育から、「よく覚える」という教育へ、教育の質を転換していかなければならない。
日本の国語教育は、この冗長率について、低くする方向だけを教えてきたのではなかったか。…だが、本当に必要な言語運用能力とは、冗長率を低くすることではなく、それを操作する力なのではないか。
通常…リーダーシップとは、人を説得できる、人びとを力強く引っ張っていく能力を指す。しかし、私は、これからの時代に必要なもう一つのリーダーシップは、こういった弱者のコンテクストを理解する能力だろうと考えている。
…私は、自分が担当する学生たちには、論理的に喋る能力を身につけるよりも、論理的に喋れない立場の人びとの気持ちををくみ取れる人間になってもらいたいと願っている。
要するに、発話がうまくいかない場合、その原因を個人…にのみ帰するのではなく、いったい、そこは話しかけやすい環境になっているのかを問うていくという考え方だ。
管理職が、本当に若者たちの多様な意見を欲しているとすれば、彼らが意見を言いやすい場所をセッティングするのが、管理職の責務である。もしもそれを怠って、「近頃の若者は…」と愚痴をこぼしているだけなら、それは、「はい、私は、会議もデザインできない無能な管理職です」と公言しているようなものだ。
もとより本書は学術書ではないから、論点整理の点で、少しわかりづらく、繰り返しも少なくない印象がある。
その点では、読み手の力量が問われる本なのかもしれない。
ただ、現代日本の問題点を的確にとらえている点では確かだろうと思う。
今回、二度読んだが、再読したい本である。