「ニッポンには対話がない」を読んだ

ニッポンには対話がない

 本書は劇作家の平田オリザさんとフィンランドに詳しい北川達夫さんとの対談をまとめたもので、俺には面白く読めた。
 序の「教え込むことの誘惑」では、「教える立場の人間が、「教え込むことの誘惑」を抑えることができるか」が強調されている。
 「善意と熱意が、子どもたちに自分の価値観、価値判断を押しつけることになっていることに気がつかない。いい先生としてのまわりの評価も高いから、たぶんそのまま永遠に気がつかないだろうというところに、わたしとしてはものすごくストレスがたまるんです」(北川)。
 さらに「価値観の押しつけに無防備な日本人」の箇所で、ヨーロッパ人の攻撃性に慣れていない無防備な日本人が、無防備であるから、無自覚にみずからの価値観を相手に押しつけている可能性があり、その危険性に無自覚であると生死にかかわる問題に至ってしまうかもしれないと北川氏が教育の必要性を強調している。
 コラム欄の「謝ることは義務ではなく、チャンスである」(北川)も、これからのありかたを考える際に、大変示唆に富む指摘であると思う。その詳細にわたる紹介はここでは避けるが、「この発想を象徴する、おもしろい事例」の紹介がされている。

フィンランドの教育では、先生が子どもに質問したからといって、子どもに答える義務はないとしています。先生の質問というのは子どもに与えられたチャンスであって、義務ではないというんですね。だから、そのチャンスを利用するかしないかは子どもの選択の問題であると。つまり、先生に質問されても、子どもは答えるのを断ることができるんです。


 「では、子どもが答えるのを断り続けたらどうなるか」。

理論的には可能なのですが、現実には断り続ける子どもはいません。それは同じく道徳教育において「言うかどうかは選択の問題だが、主張しない『個』は社会においては存在しないのと同じことである」と教えられているからです。


 1章の「対話空間のデザイン」のところでは、日本の大学生は、「小学校の頃から先生があらかじめ用意して隠していた答えを当てていくような授業に慣れてしまっている」し、「一つの正答に向かって近づいていく技術を、子どもの頃から塾の講習や受験勉強を通して訓練されてきているから」、「正解のない問題」に取り組んで意見を言っていくことが苦手であると冒頭で紹介されている。
 これはすでに共通認識になっているだろう。
 学ぶべきは、問題提起として、「すぐに答えを求めない」という箇所で「「正しい意見」「まちがった意見」という発想は捨てる」(北川)ことが強調されていることだ。

ある意見が正しいのか、それともまちがっているのか、それは本来的にはだれにもわからないことです。意見なんて、突きつめていえば、その根拠が事実として正しいかどうか、あるいは意見と根拠が適切に関連づけられているかどうかでしか評価できないものなんですから。
 それなのに意見というと、その根拠も聞かずに、「これは正しい意見ですね」「それはまちがった意見でしょう」というふうに、けっこう言ってしまっているんですよ。そういうことをしていると、「答えのなかには、まちがった意見というものがあって、それを言ってはいけないんだな」というようになってしまうんです。
 いろいろな意見が出てくる状態をよしとしなかったり、あるいは、いろいろな意見が出ても結局は決まった結論に導いてしまったりしていると、その場に参加している人たちからは意見が出にくくなっていきます。やっぱり、何が正しい意見なのか、何がまちがっている意見なのかということをまっさきに人は考えてしまう。

 また、北川氏は、中学生が自分で考えていろいろな意見を言っている場で、教師がまとめをやろうとして、もっともらしいことを言うことがあるけれど、教師がまとめる必要のないテーマもあるし、それが余計なお世話のこともあるとの指摘は、教師として少し耳が痛くはないだろうか。
 さらに紹介したいこともあるけれど、きりがないのでやめる。

 「対話」を学ぶために、何度も読んでよい対談であるように思う。