「明日戦争がはじまる」という詩がインターネット上で話題になっているという記事を昨日の朝日新聞(夕刊)で読んだ。この詩は詩人の宮尾節子さんの作品で、「明日戦争がはじまる」という詩の存在を私は初めて知った。
この詩を読んでわたしは、陸井三郎氏の「ベトナム帰還兵の証言」(岩波新書)を思い出した。
ベトナム戦争に出かけて行ったのは、アメリカ合州国の18歳・19歳という若者たちであった。そうした10代の若者がベトナムに出かけていって、なぜ殺人行為や残虐行為ができたのか。
彼らの多くは、ごく普通の学校で学んだ普通の若者たちだが、すでにそうした普通の学校で“教育”され、“準備”ができていたという「証言」が印象的だった。普通の学校で“教育”されたことが、すでに戦争の“準備”教育であり、その後兵隊となり、上官がウサギの首を目の前でへし折るような象徴的な初年兵訓練を受け、ベトナムに向かったという話も記憶に残っている。
その意味で、すでに日本も、そうした“教育”をし、“準備”が進行していると考えるべきなのだろう。まさに「じゅんびはばっちりだ」と言えるのだろう。
教育とは、自主的に考える作業である。批判的に考える作業である。もちろん、それはよりよく生きるために、である。それを止めたら教育は教育でなくなってしまう。
その意味で、教育の、その存在根拠が問われていると言わざるをえない。
明日戦争がはじまる
宮尾節子
まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった
インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった
虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった
じゅんび
は
ばっちりだ
戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる
6月29日に、新宿駅南口付近で、「集団的自衛権の行使容認に反対する演説をしていた男性が焼身自殺を図り、重傷を負った」。ある人が、宮尾さんの詩を転載して、次のように書き込んだという。
焼身自殺にピンとこない、じゅんびばっちりな自分に驚いた
現代日本は、感性を持続可能なものにしなければならない文化のたたかいでもある。