「「9条守れ」だけでは伝わらない 護憲叫ぶ声の中で」

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 以下、朝日新聞デジタル版(2018年1月10日23時38分)から。

 憲法改正に積極的な国会勢力は、改正案の発議に必要な「3分の2」を超えている。だが、各種の世論調査では焦点となる9条改正への賛否は分かれる。「9条だけは守るべきだ」と訴え続ける人たちには、どんな経験や背景があるのだろうか。(清水大輔

 徳島市の山中夫佐子さんは毎週火曜、自宅近くで開かれる水彩画教室に通う。10人ほどの生徒の中で88歳は最高齢。描くのはコイやネコといった動物から阿波踊りまで様々。いつも意識するのは「生きとる感じの色を出す」ことだという。

 絵筆を握り始めたのは20年ほど前。市役所であった徳島大空襲の写真展を見た際の違和感がきっかけだった。空襲からしばらくたち、バラックが建ち始めたまちの様子などが写っていたが、「私が見たのはこんな白黒じゃなかった」。

 1945年7月4日未明。まちを米軍のB29爆撃機が襲った。

 シュッ、シュッと音を立てて散らばる焼夷(しょうい)弾の漆黒。直撃を受け炎に包まれた女性の赤。何が燃えたのか、翌朝の空はピンクの煙に覆われ、焼けた土は時間とともに黄から赤茶けた色へと変化していった。女学生だった山中さんは友人から「ザクロのように裂けた子どもがいた」とも聞いた。

 半世紀前の記憶と証言を頼りに、50枚あまりを一気に描いた。

 戦後は現在の徳島大医学部の秘書や洋酒バーの経営で生計を立てた。結婚して子ども1人、孫1人。自宅のほかに別宅を構え、高齢者施設の入居者がくつろげる場を作ろうと「山」も買った。少し前まで、水彩画教室もドイツ車で通っていたが、ギア操作が難しくなって手放した。

 「生かされたから、何でも挑戦してきた。それが許されたのは、戦争を放棄した憲法9条があったからでしょ」。約10年前から空襲の絵を見せながら中学生らに体験を話している。

 「押しつけ」だと言う人がいるからその成り立ちを自分なりに調べたこともあるし、北朝鮮情勢を見るにつけ、自衛隊の大切さも痛感している。だけど「9条を変えてほしくない」。

     ◇

 昨年12月19日夜、国会前。安全保障関連法の違憲性を訴えるため毎月開かれているデモに、茨城県内に住む吉岡雅敏さん(61)の姿があった。電車を乗り継ぎ1時間。少し前までは家を出るのも苦しかった。

 被差別部落で生まれ育った。大学生の時、就職の筆記試験に通っても、面接に呼ばれなかった。父親の事業を引き継いだが、同僚らから日常的に暴行を受け、5年ほどで逃げ出した。別の職場でうつ病を発症。02年ごろから引きこもり状態になった。

 一昨年の7月、たまたま家を出た先で地元の「九条の会」のチラシを見つけ、参加するようになった。メンバーが協力して憲法に関連する映画会を開いた際、約70人の参加者に関心のある項目について尋ねた。複数回答で一番多かったのが「基本的人権の尊重」で52人。その次が「戦争の放棄」で46人だった。

 9条が一番だろうと予想していたメンバーは意外そうにしていたが、吉岡さんは別のことを考えていた。差別や暴力に苦しみ自殺も考えた自分が踏みとどまれたのは、「個人の尊重」が見えないところで機能していたから。好きなことを学び、思ったことを言えるのも戦火のない日常があったからこそだ。「ただ、そんな当たり前のことも、普段は意識しづらい」

 04年にできた「九条の会」。2年後に4770だった賛同組織は11年末には7528となり、その後も増える。その一つに吉岡さんも身を置くが、昨秋の衆院選で「改憲をめざす勢力」は3分の2を超え、安倍晋三首相は9条改正に意欲を示し続ける。この「ズレ」が「『9条守れ』と言うだけでは伝わらない現状」だと映る。

 吉岡さんは会の勉強会に戦後の遺骨収集に携わった旧厚生省職員や、樺太から逃げ帰った人を地元で探し、招いた。生活の不満を率直に語れる場を作るだけでもいいと考える。「どこかで9条とつながる。人それぞれ、いろいろな道筋で9条を考えられたらいい」

 国会前で「9条守れ」と叫ぶ人たちの中で、吉岡さんはそう考え続けている。