小津安二郎監督の「麦秋」を再び観た

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麦秋

 小津安二郎の「麦秋」(1951年)*1を再び観た。

 朝原雄三監映画督による「釣りバカ日誌」15作目ハマちゃんに明日はない!?」でオマージュを込めた「麦秋」の名場面を杉村春子(矢部たみ役)と原節子(間宮紀子役)が演じている。

 いうまでもなく戦後の憲法で結婚は両性の合意で成り立つものとされた。これは婚姻は本人たちの気持ちが一番大切ということに他ならない。映画「麦秋」を観てもらえばわかるが、結婚の決め方が「麦秋」ではぶっ飛んでいる。

 家族が気をもむ中で自分の結婚は自分で決めるという間宮紀子(原節子)に、戦後の新しい女性像を見ることは難しくない。それも、お嬢さま育ちで、今でいうキャリアウーマンの女性が東北の秋田に転任することになった子持ちの医師に嫁ぐというのだ。

 それと見逃してはならないのは、戦争の傷跡がまだまだ癒えていないという点だ。

 本作では、映画に登場することのない間宮紀子(原節子)の上の兄である戦死した次男の省二が果たしている役割はけっして小さくない。紀子(原節子)が子持ちの医者である矢部謙吉(二本柳寛)と結婚する気持ちになったのも、戦死した兄の省二に対する敬愛の念があるように感じる。

 本作は戦後6年も経っていない時期につくられた。当時戦地から帰らぬ人たちはまだまだ多く、間宮志げ(東山千栄子)のように、戦死と言われてもいつか帰ってくるのではないかと諦めきれない人たちは多かったに違いない。

 小津安二郎監督のつくる映画は、地味なセリフ劇であり、俳優の所作も派手ではないし、肝心の流れや動きを意図的に削除する演出も目立つため、観客はセリフや俳優の仕草やコマ割りを丁寧に追っていかないと、わかりづらい印象がある。派手なアクションを避け、日本人の日常生活を丁寧に描写している。いわゆる小津調だ。だから、もしわかりづらいとすれば、それは見る者の鑑賞眼が試されているということでもあるのだろう。

 以下は、内田樹氏の「麦秋」についてのコメント。

 話の筋というより、生活の記録としての映画という感じのエッセイになっている。内田樹氏が指摘している点も、小津映画は、見る者の鑑賞眼が試されているという指摘を補強してくれているように思う。

小津安二郎断想(3)「食卓の儀礼」 - 内田樹の研究室 (tatsuru.com)